05:零度の渇望
ギルベルト覚醒回です!
鉄錆の酷い悪臭が、湿った風に乗って鼻腔を焼いた。
灰色の空の下、ぬかるんだ泥土を踏み砕きながら、ギルベルトはただ一直線に敵の本陣へと歩を進めていた。
(…俺の、番犬が)
怒りというには、あまりにも冷たく、暗い感情だった。
前線が崩壊し、リアナが指揮する別働隊が敵の奇襲を受けて全滅したという報せ。
それが敵の流言飛語である可能性は、彼の明晰な頭脳であれば瞬時に計算できたはずだった。
しかし、一滴でもその可能性が存在するという事実そのものが、ギルベルトの理性を致死量の毒のように侵食していた。
「射て! あの銀髪の将官を殺せ!!」
敵陣から放たれる無数の矢が、黒い雨のように降り注ぐ。
ギルベルトは瞬き一つせず、手にした長剣を一閃させた。空気を切り裂く鋭い風切り音と共に、銀の軌跡が矢の雨をことごとく叩き落とす。
砕けた矢羽が木屑となって舞い散る中、彼の翡翠の瞳は極寒の湖面のように静まり返っていた。
一切の感情を排したその美貌は、返り血を浴びてなお神々しく、近寄りがたい凄絶な覇気を放っている。
その時、死角となった側面の泥濘から、息を潜めていた敵兵の長槍が突き出された。
回避は間に合わない。
肉を裂き、筋繊維を断ち切る生々しい音が戦場に響き、太い槍の穂先がギルベルトの左肩を深々と貫いた。
鎖骨のすぐ下、骨が軋む鈍い振動が全身を駆け抜ける。
「っ……」
熱い。焼けるような激痛が左半身を支配し、傷口からどくどくと大量の鮮血が溢れ出した。皺ひとつなかった銀青色の軍服が、瞬く間にべっとりとした赤黒さに染まっていく。
だが、ギルベルトの表情には微塵の変化もなかった。
まるで羽虫に刺されたかのような、恐ろしいほどの無反応。
「やったぞ!氷の将を仕留め——ひっ!?」
歓喜の声を上げかけた槍兵が、息を呑んで硬直した。
貫かれた自らの肩を見下ろしていたギルベルトが、ゆっくりと視線を上げ、槍の柄を握る男を見据えたからだ。
決して痛覚が麻痺しているわけではない。急激な出血により、白磁のような肌にはびっしりと冷や汗が浮かび、彼の肉体は確実に悲鳴を上げていた。
だが、その翡翠の瞳に宿る絶対的な零度は、痛みに歪むどころか、さらに鋭く研ぎ澄まされていた。
ギルベルトは血に濡れた右手で、自身の肉に食い込んでいる槍の柄を無造作に掴んだ。
そして、顔色一つ変えずに自ら一歩前へ踏み込み、貫通した槍を背後へ引き抜かせたのだ。
ズチュリ、と肉が抉れる悍ましい音と共に、新たな鮮血が泥濘にぶち撒けられる。
「ば、化け物……っ!」
腰を抜かして這いずり逃げようとする槍兵の首を、銀の閃光が冷酷に刎ね飛ばした。
ギルベルトの呼吸は、すでに正常ではなかった。
喉の奥から、気道を焼かれたような浅く熱い喘鳴が漏れ出している。
貫かれた肩の周囲の筋肉は、損傷による激痛で本人の意志とは無関係にビクビクと痙攣を引き起こしていた。視界の端が明滅し、胃の腑から込み上げる吐き気が喉元まで迫る。
それでも彼は、止まらない。
ダラダラと血を流し、泥濘に赤い斑点を作りながら、ただ真っ直ぐに敵将のいる本陣へと歩みを進めていく。
「ひ、ひぃぃっ! 来るな! 止まれぇっ!!」
敵将が半狂乱になって叫ぶ。
周囲の護衛たちが槍や剣を構えて群がりかかるが、ギルベルトの歩みは止まらない。
痙攣する左腕をだらりと下げたまま、右手一本で振るわれる長剣は、向かってくる者の腱を断ち、喉笛を正確に切り裂いていった。
遅れて戦場の後方に駆けつけた参謀長のクラウスは、その光景を前に息を呑み、泥濘の中で足を止めることしかできなかった。
無理もない。大量の血を流し、脂汗に濡れた銀青色の前髪の隙間から敵を見据えて歩を進めるギルベルトの姿は、傷つき壊れかけているからこそ、正視できないほどの毒々しい色気を孕んでいたのだ。
激痛に耐え、血の気を失った白い肌と、ひび割れた唇から漏れる荒い吐息。
肉体は限界に近いというのに、その精神は死の淵にあってなお決して揺るがない。
絶対的な強者の覇気と、生理的な苦悶が生み出す危うい隙。
その二つが混ざり合った壮麗な姿は、同性であるクラウスすらも圧倒し、言葉を奪うほどに凄まじかった。
「……終わりだ」
ギルベルトの低く掠れた声が、戦場の喧騒を縫って響いた。
次の瞬間、彼の間合いは完全に消失していた。
激痛の走る筋肉を無理矢理に酷使した、人間離れした圧倒的な神速の踏み込み。
「あ、あぁ……っ」
敵将が引き攣れた悲鳴を上げる暇もなく、ギルベルトの刃は既にその首元、脈打つ頸動脈にぴたりと当てられていた。薄皮一枚を切り裂き、一筋の血が冷たい鋼の刃を伝う。
周囲の敵兵たちは絶句し、震える手から武器を取り落とした。
「……拘束しろ」
這い蹲る敵将を一瞥もせず、ギルベルトは吐血を堪えるように微かに眉根を寄せ、背後の部下たちに命じた。
「閣下っ!」
我に返ったクラウスが、泥を跳ね上げてギルベルトの元へ駆け寄る。
間近で見る主君の姿は、クラウスの背筋を粟立たせるほど痛々しく、そして常軌を逸して美しかった。
左肩からは未だに絶え間なく血が流れ落ちているというのに、一切の崩れを見せないその精神の異常性が、凄絶な色香となってクラウスの目を焼いた。
「失礼します、止血を!」
クラウスは咄嗟に自身の清潔なシャツを引き裂き、何重にも折りたたんでギルベルトの傷口に強く押し当てた。
さらに上から手早く布を回し、強引に縛り上げる。
指先にまとわりつく、生温かく大量の血。
(……恐ろしい出血量だ。常人ならば、とうに意識を手放していてもおかしくない)
だが、骨が軋むほどの圧迫を加えても、ギルベルトは微かな喘鳴を漏らすだけで、顔色一つ変えずにそれを受け入れていた。
(これほどの深手を負いながら、なぜ平然と立っていられる……っ)
その人間離れした精神力と凄絶な横顔に、クラウスはただ戦慄するしかなかった。
彼の必死の処置により、命に関わる急激な失血だけはかろうじて食い止められていた。
血に濡れた刃を鞘に収め、ギルベルトは灰色の空を仰ぎ見た。
応急処置によって傷口からの夥しい出血は抑え込まれたものの、すでに奪われた血の量は多く、彼の肉体は極限状態にあった。だが、今の彼にはそんなことはどうでもよかった。
彼の中にあるのは、行き場を失った激情だけだ。
リアナがいない世界。
その事実を前にして、自分の中で渦巻くこの昏い執着をどうすればいいのか、彼自身にも分からなくなっていた。
自分の与えた毒で塗り潰し、永遠に縛り付けようとした女に、いつの間にか自分自身が致死量の毒を盛られていたのだ。
ふと、泥の跳ねる足音とともに、聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。
「閣下……!」
幻聴か。
そう思いながらゆっくりと振り返ると、そこには息を切らして駆け寄ってくるリアナの姿があった。
きっちりと結い止められているはずの黒い長髪は後れ毛が散り、リボンは泥に汚れている。
軍服のあちこちが破れていたが、その濃い翡翠の瞳は力強く澄んでいた。
五体満足な、健全な姿。
「ご無事ですか?!」
リアナは周囲の惨状に構うことなく、真っ直ぐにギルベルトの元へ走り寄った。
そして、彼の左肩を真っ赤に染め上げ、分厚い布で固く縛られている惨たらしい槍の傷跡に気づき、さっと顔色を青ざめさせる。
「ああ、肩がっ……! すぐに軍医の元へ……!」
衛生兵を呼ぼうと振り返りかけた彼女を、ギルベルトの健在な右腕が猛烈な勢いで引き寄せた。
「えっ……」
骨が軋むほどの力で、彼女のしなやかな身体を分厚い胸の中に閉じ込める。
リアナの鼻先に、強い鉄錆の匂いと泥、そしてギルベルトの冷ややかな香草の体臭とが混ざり合った、咽せ返るほど濃密な匂いがぶつかった。
密着した彼の体温は異常なまでに高く、まるで熱病に浮かされているかのようだった。
「閣下……?」
痛いほどの抱擁に戸惑いながらも、リアナはそっと声をかけた。
その時、彼女は気づいた。
自分を背中から締め付けるギルベルトの太い腕が、微かに、けれど確かに小刻みに震えていることに。
耳元で、彼が息を吐く音が聞こえた。
いつもは静かで規則正しい呼吸が、今はひどく浅く、気道を焼かれたように熱を帯びて喉を鳴らしている。
その生々しい男としての弱さと、彼女を決して逃がさないという支配的な腕の力のギャップが、リアナの胸の奥を甘く痺れさせた。
ただの忠誠心だけでは片付けられない、不規則な鼓動が彼女の心臓を激しく叩き始める。
鉄と血の匂いが、彼の色香を何倍にも引き立てる猛毒となって彼女の理性を甘く溶かしていく。ポツリと、耳の裏までが熱くなるのを感じた。
「……お前を、失ったかと思った」
普段の冷徹な彼からは想像もつかないような、ひどく低く、掠れた声。
上官としての立場を脱ぎ捨てた小さなその呟きは、誰の耳にも届かない。
ただ、腕の中に囚われたリアナだけに与えられた、特権のような告白だった。
彼がどれほどの痛みを堪え、どれほどの絶望を抱えて、流言飛語かもしれない情報に踊らされここまで単騎で斬り込んできたのか。
その事実が、リアナの胸を締め付ける。
畏怖と崇拝の対象であった無敗の氷の将官が、自分という存在一つでここまで崩れる。
その事実に恐れおののきながらも、同時に、彼女の中にある女としての本能が強く揺さぶられていた。
「……申し訳ありません、ご心配をおかけしました」
リアナは小さく謝罪の言葉を口にすると、怪我に触れないよう極めて慎重に、ゆっくりとギルベルトの広い背中に腕を回した。
泥に汚れた彼女の小さな手が背中に触れ、ぎこちなく彼を抱きしめ返した瞬間。
ギルベルトの口元に、冷酷で歪んだ笑みが微かに浮かんだことを、リアナは知らない。
(……そうだ。お前はもう、俺の腕の中から逃げられない)
肉体の限界による生理的な震えすらも、この可愛い番犬を捕えるための鎖に変えて。
傷だらけの氷の将官は、彼女の黒髪に顔を埋めながら、その甘い猛毒の沼へと彼女をさらに深く引きずり込んでいくのだった。
ありがとうございました!




