現代に蘇った迤北八珍の玄玉漿
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
先祖を辿れば晋の皇族である王元姫の一族に行き着く出自も、恐らくは影響したのでしょう。
私こと王秀竜にも、「我が中華王朝の国益となる素晴らしい功績を残したい」という功名心は相応に御座いました。
そんな青春の立志を胸に勉学に励んだからこそ在チェコ中華王朝大使館に職を得る事が出来たのですが、どうも私の場合は勉学や職務の上で習得した知識や技能とは別の側面で人様に注目される傾向にあるのかも知れません。
今回の一件で、改めてそう実感した次第ですよ。
普段と同様に大使館へ出勤した私は、上役より寝耳に水の辞令を告げられたのです。
「王秀竜、急な話で済まないが出張の辞令だ。貴官には近々、本国の北京まで飛んで貰う。それも紫禁城へだ。」
一介の大使館職員に過ぎない私が、事もあろうに我が中華王朝の王城へ出張とは。
それはあまりにも分不相応にして意外な辞令であり、俄には信じ難い物だったのです。
とはいえ、お受け致すより他は御座いませんでしたね。
「畏まりました。この王秀竜、在チェコ中華王朝大使館職員として恥ずかしくないよう、心して取り組む所存に御座います。」
上役へ拱手の礼を示しながら、私は静かに決意を新たにしたのでした。
チェコから故国までの空路はファーストクラスを用い、北京の空港から紫禁城までの道程は政府の公用車。
一介の大使館職員風情には余りにも過分な厚遇に、自ずと身が引き締まる思いですよ。
とはいえ此度の辞令の出処を知れば、それも無理からぬ事と合点がつきましたがね。
「こ、これは!愛新覚羅白蘭第二王女殿下!」
壮麗な紫禁城の宮中で出迎えて下さった御方に、私はおずおずと拱手の礼を示させて頂いたのです。
「この紫禁城へよくぞ御越し下さいました、王秀竜。チェコからの旅路は、さぞやお疲れで御座いましょう…」
その御方こそ、我が中華王朝二代女王こと愛新覚羅翠蘭陛下の妹君であらせられる愛新覚羅白蘭第二王女殿下に他ならなかったのです。
一介の大使館職員風情に過ぎぬ私には、正しく雲上人で御座いましたよ。
「そう恐縮なさらずとも構いませんよ。実は貴官に御力添えを頂きたい事が御座いまして。」
「で、殿下!それは誠に、有り難き幸せに存じます…」
余りの事態に驚きながら、私はどうした物かと考えを巡らせるばかりでした。
果たして私のような一介の俗人に、斯様な貴人のお力添えが出来るのか。
それを思うと、自ずと総毛立つ有り様でしたよ。
「時に王秀竜…貴女は相当な酒豪であらせられるそうで。姉上…いえ、今上の女王陛下がプラハへ表敬訪問をされた折には、貴女の御尽力でピルスナーを満喫出来たそうで御座いますね。改めて御礼を申し上げますよ。」
「はっ!有り難き幸せに存じます、愛新覚羅白蘭第二王女殿下!我々大使館一同、王室の方々にお楽しみ頂けるよう粉骨砕身の思いで励んだ次第に御座います!」
今を去る事、六年前。
当時は十八歳の御生誕日を迎えられたばかりの王女殿下でいらっしゃった今上女王陛下がプラハへ表敬訪問をなされたので、我が大使館職員一同はプラハでも屈指の老舗と名高いビアホールの美酒を堪能して頂こうと取り計らったのです。
ところが件のビアホールには何人たりとも予約不可という原則があり、それは我が中華王朝の王族も例外ではなかったのです。
そこで止むを得ず、ビアホールの開店と同時に我々大使館職員が席を取り、その席を殿下がお越しになるまで死守し続けるという苦肉の策を取る事になった次第で御座います。
ここで白羽の矢が立ったのが、大使館職員の中で一番の酒豪と呼ばれる私だったのです。
何しろ他の職員達が次々と酔い潰れる中、最後まで意識を明瞭に保てていたのですからね。
経緯が経緯なので多少照れ臭くはあるのですが、この件を讃える形で双龍宝星勲章を受勲出来たのは我が人生の誇りですよ。
「話は変わりますが…王秀竜、貴官はワインを嗜まれますか?ビールに隠れがちでは御座いますが、チェコはワインも良質な物が御座いますね。貴官もワインには一家言御持ちの方とお見受けしましたよ。」
「恐れながら申し上げます、殿下。ワインは私と致しても大好物で御座います。自宅ではモラヴィア産を愛飲しておりますが、時にはボヘミア産も嗜んでおります。」
流通量の大半が国内市場で消費されている良質なチェコのワインを、気軽に街角で購入出来る。
これは在チェコ大使館に勤務する者の役得と言えるでしょうね。
「利き酒のような事は出来るのですか?例えば、産地や年代による微細な違いを感じる事は?」
「ズノイェムスカ地区産とミクロフスカ地区産の違いを飲み比べて楽しんだり、保存期間による酸味の違いを言い当てる位でしたら…」
私の返答を聞かれるや否や、殿下は典雅な美貌に気品ある微笑を閃かせながら次のように仰ったのです。
「成る程、それは僥倖です。それでは王秀竜、今度は妹の私に助力をお願い致しますよ。酒に極めて強く、尚且つ美酒を判別する力に長けている。正しく私の求める逸材です。」
「逸材で、御座いますか…?」
そんな私を尻目に、殿下は古風な巻子装を取り出されたのです。
「四千年の伝統を誇る我が中華において、食は歴史と文化の極致と言うべき芸術品…中でも特に洗練されたのが周から清までの歴代王朝で供された宮廷料理ですが、その歴代王朝の宮廷料理においても珍味とされた物こそが八珍なのです。」
歴史と文化、そして芸術品。
これらの単語を、殿下は殊更に強調されたのでした。
「我が中華王朝は自他共に認める清朝の後継国で御座いますが、歴代王朝の輝かしい美徳と伝統も継承した国家でもあるのです。そこで私は、歴代王朝の八珍の厳選復刻を文化事業の一環として推し進めているのですよ。」
この御方ならば確かに、そのような事業を手掛けられるでしょう。
何しろ御幼少の砌より芸術的才能と知識に秀でていらっしゃった愛新覚羅白蘭第二王女殿下は、今は幼少時から出入りされていた翰林図画院の官僚として文化事業の推進に尽力されている御身なのですから。
「御覧下さい、王秀竜!歴代王朝の八珍と清代の満漢全席から、現代でも無理なく再現出来る料理を選りすぐったのですよ…」
嬉々とした御様子で、殿下は広げた巻物のそこかしこを示されるのでした。
周代八珍からは酒に浸した牛肉である漬珍、宋代八珍からは鶉の炙り料理である鴞炙、そして元代八珍からは羊乳を煮て作ったチーズである酥酪。
仰る通り、歴代王朝の八珍からバランスよく選出されていますね。
本来はオランウータンの唇を用いる明代八珍の猩唇はトナカイ肉の煮込み料理に差し替え、宋代八珍の龍肝は養殖した白馬の肝で代用するなど、現代の情勢に合わせた再解釈もなされていて、細やかな配慮が見て取れますよ。
そしてフカヒレの姿煮である魚翅や椎茸料理の花茹といった清代の満漢全席からも複数選出されている点は、清朝皇族の末裔という殿下の御出自を感じさせますね。
「宗教的戒律やアレルギー等の事情で特定の食材を召し上がれない方がいらっしゃった場合の代替措置としては、清代の満漢全席から無難な野菜料理を見繕って差し替えれば宜しいでしょう。多種多様な宮廷料理を考案された御先祖様に感謝致しませんとね。」
「そこまで御考えとは…殿下の御慧眼には頭の下がる思いで御座います。」
大きな双眸を輝かせながら肝煎りの文化事業の計画を語られる殿下の御姿は、実に情熱的で眩い物でした。
この御方の大事業に携われるとは、臣下として光栄の至りで御座いますよ。
そうして復刻八珍の御品書が記された巻物を繰っていった私は、奇妙な点に気づいたのです。
「恐れながら、殿下。元代八珍より採用された葡萄酒の玄玉漿だけ『決』の赤文字が記されておりませんね…」
「良い目の付け所ですね、王秀竜。それこそが、貴女をお呼びした理由なのですよ。」
復刻八珍のうちの七つは調理方法も使用する食材も確定したものの、今日のワインというべき玄玉漿は葡萄の種類や産地によって大きく左右されるので、今まで保留となっていたそうです。
「王秀竜、貴女には現代版玄玉漿となるべきワインを選んで頂きたいのですよ。どれだけ飲んでも決して酔い潰れない酒への強さ、そして産地や年代のもたらす微妙な違いを楽しめる味覚。それらを兼ね備えた貴女にしか出来ない仕事です。私もお酒は好きな方ですが、そこまで鯨飲は出来ませんからね。」
「恐れながら、殿下。ワインの選出ならばソムリエが適任と存じますが…」
しかし聡明な殿下は、その先をもお見通しだったのです。
「御用ソムリエといったポストを下手に設けてしまいますと、そこに良からぬ思惑やら談合やらが生じないとも限りませんからね。複数人のソムリエを起用しても、『船頭多くして船山に登る』の言葉にあるように意見が割れるでしょう。そこで、プラハのビアホールの一件で名を馳せた貴女が必要なのですよ。ビールの鯨飲で双龍宝星勲章を受勲した貴女が選んだワインならば、文句もつかないでしょう。」
「ううむ、それは…」
そこまで仰られては、反論の余地が御座いません。
私は腹を括り、玄玉漿の選定に携わる事と相成ったのです。
かくして紫禁城での勤務が始まった訳なのですが、その実態は実に楽しい物でしたよ。
「う〜む…雲南省で育てられた葡萄を用いた、甘口のワインですか。この自然な甘みは、元王朝のモンゴル族にも喜ばれたかも知れませんね。」
少量のワインを口に含んで味と香りを楽しみ、その感想と批評を成文化してまとめる。
それは正しく、酒好きには堪えられない天職と言えましたね。
とはいえ、楽しい時間は永遠には続きません。
厳正な選考を重ねた結果、現代版玄玉漿の候補たるべきワインは五種類にまで絞られたのでした。
「申し訳ありません、殿下…私の舌ではこれ以上は…」
いずれも甲乙つけ難い美酒であり、どうしても決めかねてしまったのです。
「いえいえ…ここまで厳選して下さり、貴官はよく尽くして下さいましたよ。そもそも元代でも、流石に一箇所の産地に拘ってはいないでしょう。後は元代の製法に倣い、自然発酵させてモンゴル式の革袋で保存すれば、現代版玄玉漿として充分に及第点がつくでしょう。」
私を労って下さる殿下の御言葉が、実に胸に染みましたよ。
復刻八珍の一角を占める現代版玄玉漿が誕生したのには、このような経緯があるのですよ。
製法には厳密に拘るものの、収穫量や流通量といった様々な要素を考慮し、原材料とする葡萄の産地を複数の候補から適宜選択する。
柔軟性を伴う寛容さは、正しく白蘭殿下を始めとする愛新覚羅王家の美徳を体現されたかのようですよ。
白蘭殿下より下賜された真新しい礼状は、プラハのビアホールの件で頂いた礼状の隣に飾らせて頂きました。
宣統帝の血統を現代に伝える高貴な姉妹による礼状を眺めておりますと、ワインも一層に美味しく頂けますよ。
とはいえ紫禁城であれだけ飲んだ身の上としては、しばらくはワイン以外のお酒を頂きたいですね…