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第九十五節 春の狩猟宴

 第九十五節 春の狩猟宴


 春の陽光が穏やかに降り注ぐ中、天瑞王朝の皇帝・慶成帝は、例年の習わしに従い、春の狩猟を催した。秋の狩猟が武勇を競う場であるのに対し、春の狩猟は宮廷の交流と儀礼を重んじる。后妃や女官たちも同行し、狩場の帳殿ちょうでんで宴を楽しむのが慣例となっていた。


 蘭雪もまた、采女たちを引き連れ、皇后の命を受けてこの宴に参加することになった。


 狩場に設えられた帳殿には、美しい緋色の幕が揺れ、花の香が漂う。后妃たちは華やかな衣装を纏い、春の訪れを祝うかのように談笑していた。


「狩猟といっても、こうして眺めるばかりでは退屈ね」


 貴妃・葉容華が微笑しながら、杯を傾ける。


「ですが、陛下の御弓捌きを拝見するのも一興かと」


 皇后・沈麗華は穏やかに応じたが、その表情の奥には冷静な観察の光が宿っている。


 一方、蘭雪は采女たちとともに控えていたが、違和感を覚えた。


 (妙ね……。狩猟が始まってしばらく経つのに、まだ陛下が獲物を射止めた報せがない)


 春の狩猟では、象徴的な「初獲物」が重視される。慶成帝の威光を示すためにも、最初の獲物を仕留めた報せは速やかに届けられるはず。しかし、今日はやけに静かだった。


 その時——


「お待たせしました。陛下が最初の獲物を捕らえられました」


 宦官が報せを持ってきた。だが、その声はどこか沈んでいる。


「……初獲物は、白鹿びゃくろくにございました」


 帳殿の空気が凍りついた。


 白鹿——それは瑞兆とされる神聖な獣。


 皇帝がそれを射止めたということは、吉兆とも取れるが、逆に「神聖なものを傷つけた」と不吉に解釈されることもある。


 案の定、貴妃・葉容華が微笑を含みながら言った。


「まあ……白鹿とは。これは何を意味するのかしら?」


 后妃たちの間に囁きが広がる。


「瑞兆とも言えるけれど、神の使いを討ったと取られることも……」

「占いで祟りと出たなら、不吉な前兆になるのでは?」


 不安の声が広がる中、皇后・沈麗華が静かに口を開いた。


「陛下が射止めた以上、それは天意。何者もそれを揺るがすことはできません」


 毅然とした言葉だったが、その表情はわずかに険しい。


 蘭雪もまた、事態の深刻さを理解していた。


 (これは単なる偶然ではない……。もしかすると、陛下に害意を持つ者の仕掛けた策かもしれない)


 白鹿が狩場に現れること自体が稀であり、そこに皇帝の矢が放たれるなど、あまりに出来すぎている。


 沈逸がこの場にいたなら、何か気づいたかもしれないが——彼は今、皇帝の護衛として狩場に随行している。


 蘭雪は、ふと后妃たちの中に沈貴人の姿を探した。


 (沈貴人は……?)


 だが、彼女の席は空になっていた。


「……沈貴人はどこへ?」


 采女の一人が答えた。


「先ほど、お体の具合が悪いと仰って、しばらく外の空気を吸いたいと……」


 蘭雪の胸に、不安がよぎった。


 (何かがおかしい——!)


 蘭雪はすぐに立ち上がった。


「申し訳ありません。少し、沈貴人を探してまいります」


 皇后が軽く頷いたのを確認すると、蘭雪は采女を連れ、帳殿を出た。


 風に揺れる草の中、沈貴人の姿があった。


 彼女は、ぼんやりと何かを見つめている。


「沈貴人!」


 蘭雪が駆け寄ると、沈貴人はゆっくりと振り向いた。


「……蘭雪?」


 その顔色は青ざめ、瞳はどこか虚ろだった。


「ご気分が優れないのですか?」


 沈貴人は口を開きかけたが、言葉を飲み込んだ。


 ——その時。


 パキッ……!


 草むらの奥から、小枝を踏む音が聞こえた。


 蘭雪は反射的に振り向いた。


 誰かがいる——!


「沈貴人、お下がりを!」


 蘭雪は咄嗟に沈貴人の手を引いた。


 だが、次の瞬間——


 矢が放たれた!


 鋭い矢が沈貴人の足元に突き刺さる。


「——っ!」


「誰か!」


 蘭雪が叫ぶと、遠くから護衛の兵が駆け寄ってくる。


 矢を放った者はすぐに草むらへと逃げた。


 蘭雪は、沈貴人を支えながら息を整えた。


「……大丈夫ですか?」


 沈貴人は唇を震わせながら、何かを言いかけたが、声にならなかった。


 (この矢の狙いは——沈貴人? それとも……)


 この春の狩猟の宴の裏には、まだ何かが隠されている。


 沈貴人を守るように抱えながら、蘭雪は素早く周囲を見回した。矢が放たれた方向には、すでに誰の姿もない。


 護衛の兵たちが駆けつけるも、矢を放った刺客は影も形もなく消えていた。


「誰かを見なかったか!」


 兵の一人が叫ぶ。


 しかし、別の兵が首を振った。


「いや……周囲には誰もいません。足跡すらない」


「そんなはずはない!」


 蘭雪は沈貴人の肩を支えながら、なおも草むらの奥を睨んだ。確かに矢は放たれた。刺客がいたはずだ。しかし、それを裏付ける痕跡がないというのはどういうことなのか——。


「……蘭雪……」


 沈貴人が震える声で囁いた。


「私……狙われたのかしら……?」


 彼女の顔は青ざめ、唇もかすかに震えている。


 蘭雪はそっと沈貴人の手を握った。


「大丈夫です。おそらく狙いは外すつもりだった。警告のための矢です」


「警告……?」


 沈貴人は目を見開く。


「ええ。もし本気で命を奪うつもりなら、もっと正確に狙ったはず。けれど、足元を射たということは——」


「“脅し” ということ……?」


 沈貴人が不安げに呟いた。


「可能性は高いですが……油断はできません。ここからすぐに帳殿へ戻りましょう」


 蘭雪は沈貴人の腕を支えながら立ち上がった。


 しかし——


「——誰だ!」


 突然、兵の一人が鋭く叫んだ。


 蘭雪も反射的に振り向く。


 そこには、一人の男が立っていた。


 武官の服装をしているが、どこか違和感がある。


「……お前、どこの兵だ?」


 護衛の兵が男に詰め寄る。


 男は一瞬、口ごもった後、不意に駆け出した。


「待て!」


 護衛の兵が追いかける。しかし——


 男の姿は、林の奥へと消えた。


 蘭雪は沈貴人を守るようにしながら、その場を離れた。


「やはり、ただの偶然ではない……」


 春の狩猟宴の裏には、何かが潜んでいる。



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