第九十三節 皇太后の招き
第九十三節 皇太后の招き
蘭雪は宦官に案内され、慎重に皇太后の御殿へと向かった。
——皇太后・蕭貞容。
彼女は皇帝の生母であり、後宮の実権を握る人物。表向きは穏やかな微笑みを絶やさぬが、その胸の内を見通せる者は少ない。
(私を呼ぶのは、何の意図があるのか……)
慎重に足を進めながら、蘭雪は思考を巡らせる。
皇后の采女としての働きを認められたのか、それとも……?
御殿の扉が静かに開かれる。
「失礼いたします」
蘭雪は深く一礼し、堂内へと進んだ。そこには、皇太后・蕭貞容が悠然と座し、蘭雪を見下ろしていた。
「顔を上げなさい」
静かだが、威厳に満ちた声。
蘭雪はゆっくりと顔を上げ、皇太后の視線を正面から受け止めた。
「……蘭雪と申します。お呼びいただき、恐悦至極にございます」
皇太后は微笑を浮かべたまま、じっと蘭雪を見つめた。
「先日の試合、見ておりましたよ」
「過分なお言葉、恐れ入ります」
「おや、謙虚ですね」
皇太后は手にした玉の念珠をゆっくりと弄ぶ。
「あなたは、皇后の采女として、なかなかの手腕を発揮しているようですね」
「身に余るお言葉です」
「ふふ……」
皇太后の笑みが深まる。
「しかし、あなたはこのまま采女のままで満足なのかしら?」
蘭雪の背筋が僅かに強張った。
(……やはり)
この問いこそが、本題なのだ。
皇太后は玉の念珠を弄びながら、静かに続けた。
「あなたほどの才があれば、もっと高みを目指せるでしょう。例えば……正式な妃の位を賜るなど」
——妃位。
それは、蘭雪にとっても決して無縁ではない話だった。
(私に、妃になる道を示す……?)
沈麗華の采女として仕えつつ、後宮での立場を確立し始めた蘭雪。だが、この言葉は、彼女に大きな選択を迫るものだった。
皇太后は、蘭雪の返答をじっと待っている。
蘭雪は深く息を吸い、慎重に口を開いた。
「……私のような者が、妃の座を望むなど、おそれ多いことです」
「そう?」皇太后の笑みが僅かに深まる。「あなたは本当に、そう思っているのかしら?」
蘭雪は静かに視線を上げた。
皇太后の目が細められる。
(試されている……)
蘭雪は確信した。
この場での言葉一つで、皇太后の評価も、今後の立場も大きく変わる。
(どう答えるべきか……)
皇后の采女として仕え続けるか、皇太后の誘いに乗り妃位を狙うか——。
この選択は、蘭雪の運命を大きく左右することになる。
蘭雪は静かに呼吸を整えた。
皇太后の言葉は甘美な毒。妃位への道を示しつつ、それが単なる好意ではないことは明らかだった。
——「あなたは、本当にそう思っているのかしら?」
その問いの奥にあるのは、試し。
(下手に欲を見せれば、警戒される。かといって、あまりに謙遜すれば、器がないと見なされる)
蘭雪は慎重に言葉を選び、口を開いた。
「……皇太后様の御心にかけていただけること、恐悦至極にございます」
まずは感謝を述べる。そして、すぐに結論を出さず、間を置いた。
皇太后は微笑を崩さぬまま、念珠を弄んでいる。
「しかしながら、私はまだ采女としての務めを果たしている身。今は、皇后様のご期待にお応えすることが第一と考えております」
皇太后の細い眉がわずかに動いた。
(反応を伺っている……)
蘭雪はさらに続けた。
「ですが——」
「……?」
皇太后の手が一瞬だけ止まる。
「ですが、私がどのような道を歩むかは、今後の働き次第かと存じます。采女の身とはいえ、宮中にいる以上は、より良き形で帝にお仕えしたいと願うのは当然のこと……」
あえて、はっきりと”妃となることを否定しない”言い方をした。
(私は妃位を狙わぬとも言わない。だが、それを望んでいるとも言わない)
皇太后の瞳が微かに細められた。
——「なるほど」
皇太后はゆっくりと念珠を転がしながら、穏やかに笑った。
「面白いことを言うのね、あなたは」
蘭雪は微動だにせず、ただ深く頭を下げた。
皇太后はしばし沈黙した後、そっと立ち上がり、蘭雪の近くまで歩み寄る。
「この後宮において、何より大切なことは何か、分かりますか?」
蘭雪はすぐに答えなかった。あえて、考える素振りを見せる。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……生き抜くこと、でしょうか」
皇太后は目を細めた。
「そう。生き抜くこと」
念珠がカチリと音を立てる。
「どれほど才があろうとも、どれほど寵愛を受けようとも、生き残れなければ意味がない」
蘭雪は静かに頷いた。
「あなたは、今のところうまくやっているようね。皇后の采女としての働きも申し分ない。しかし——」
皇太后の声が僅かに低くなる。
「あなたは、これからも皇后のもとにいるつもり?」
蘭雪の心臓が僅かに跳ねる。
(……これは、皇后様から離れるように仕向けている?)
皇太后は、蘭雪を皇后の采女としてではなく、個人として引き入れようとしているのか。
(試されている……今、どう答えるかで、私の立場が決まる)
蘭雪は静かに視線を上げ、決意を秘めた目で皇太后を見た。
「私がこの宮にいる限り、どのような役目を担おうとも、帝に忠義を尽くす所存です」
「ほう……?」
「皇后様にお仕えするのも、帝のため。もし将来、別の役割を担うことになろうとも、それもまた帝のため」
「……ふふっ」
皇太后は微かに笑った。
「なるほど、あなたらしい答えね」
蘭雪は深く頭を下げた。
皇太后はしばらく何か考えるように念珠を弄んでいたが、やがてふっと笑みを浮かべた。
「良いでしょう。しばらく、あなたのことを見守ることにします」
そう言うと、皇太后はゆっくりと席に戻る。
「そろそろ夜も更けます。今夜はここまでにしましょう」
蘭雪は静かに膝を折り、深く礼をする。
「お時間を賜り、誠にありがとうございました」
「ええ……これからが楽しみですね」
皇太后の言葉の裏にある意味を測りながら、蘭雪はその場を後にした。
◇ ◇ ◇
御殿を出ると、夜風が頬を撫でる。
(……皇太后様は、私をどう扱うつもりなのか)
はっきりとした敵意ではない。だが、ただの関心でもない。
(このまま皇后様に仕え続ければ、皇太后様の側にとっては”手駒ではない存在”として警戒される)
かといって、すぐに皇后から離れるのは得策ではない。
蘭雪はふっと息を吐く。
「……少しずつ、道を探らなければ」
試合での勝利によって、采女たちの結束は強まった。だが、それと同時に、蘭雪自身が後宮の”戦場”に引きずり込まれたことを、彼女は痛感していた。




