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第八十九節 沈貴人の決意

 第八十九節 沈貴人の決意


 夜の帳が降り、静寂に包まれた後宮の一角。沈貴人の宮には、今宵も誰一人として客が訪れる気配はなかった。


 蘭雪が灯籠の明かりに照らされながら、静かに歩み寄る。


「沈貴人様、お加減はいかがですか?」


 沈貴人は縁側に腰掛けたまま、かすかに微笑んだ。


「蘭雪……来てくれたのですね」


「魏尚様からお話を伺いました。葉貴妃様のもとを訪ねられたとか」


 沈貴人は苦笑する。「不用意でしたね」


 蘭雪は沈黙する。魏尚の言葉を思い出していた。


「沈貴人を助けたければ、お前が動け」


 蘭雪は一歩踏み出し、沈貴人に向き直る。


「沈貴人様、お伺いしてもよろしいでしょうか?」


「……何を?」


「なぜ葉貴妃様のもとへ向かわれたのですか?」


 沈貴人はわずかに目を伏せ、衣の裾を握りしめた。「……私は、この後宮でどう生きればよいのか、分からなかったのです」


「分からない?」


「はい」沈貴人は深く息を吐いた。「私は、皇帝陛下に見初められ、貴人の位を賜りました。でも……それだけのことです」


 蘭雪は沈黙する。


 沈貴人の言葉には、虚無感が滲んでいた。


「この後宮では、位を持つ者も戦わなければ生きていけない。私は、皇帝陛下の寵愛を失い……次第に居場所をなくしました。葉貴妃様が声をかけてくださったとき、私は——」


 沈貴人は口を閉ざす。


 蘭雪は静かに問うた。「……助けを求めたのですね」


 沈貴人は目を伏せたまま頷いた。


「ええ。けれど……それが、どれほど愚かなことだったのか、ようやく分かりました」


 蘭雪は小さく微笑んだ。


「愚かではありませんよ、沈貴人様」


 沈貴人が驚いたように顔を上げる。


 蘭雪は優しく言葉を続けた。


「誰かを頼ることは、生きるための知恵です。ただ……頼る相手を間違えれば、命取りになります」


 沈貴人の瞳が揺れた。


「私が、間違えていたと?」


「もし葉貴妃様が本当に貴人様の味方であったなら、魏尚様があそこまで介入することはなかったはずです」


 沈貴人は、魏尚の冷たい言葉を思い出す。


「この後宮で生きる者に、独断専行ほど危ういものはありません」


「では……私は、どうすれば」


 沈貴人の声がかすかに震える。


 蘭雪は静かに膝を折り、沈貴人と同じ目線になった。


「私を頼ってください」


 沈貴人が目を見開く。


「私が、沈貴人様をお守りします」


 沈貴人は何も言えなかった。ただ、じっと蘭雪の瞳を見つめる。


 蘭雪は続ける。「……沈貴人様はお優しい方です。でも、それだけでは、この後宮では生きられません」


「私は……」


「お強くならねばなりません」


 沈貴人の指が、わずかに震えながら衣の裾を握りしめる。


「……強く」


「はい」蘭雪は頷いた。「私がそのお手伝いをします」


 沈貴人は、しばらく沈黙していた。


 やがて、小さく微笑んだ。「……あなたが、そこまで言うのなら」


 蘭雪もまた、静かに微笑む。


 沈貴人は、これまで蘭雪を導く立場であったはずだった。しかし今、彼女は蘭雪の手を借りる立場となった。


 ——それが、後宮で生きるということなのだろうか。


 沈貴人は目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。


「……よろしくお願いします、蘭雪」


 蘭雪は深く頭を下げる。「お任せください」


 その瞬間、沈貴人の胸に芽生えたのは、今までにない確かな感情だった——。


 それは、生き抜くための決意。



 沈貴人の宮を後にしながら、蘭雪は静かに考えていた。


 (沈貴人様は、私を頼ると決めてくださった——ならば、私も全力を尽くさねばならない)


 この後宮では、ただ信頼を口にするだけでは意味がない。実際に力を示し、周囲を納得させねばならない。


 まずは、采女たちを完全に掌握しなければ。


 蘭雪は決意を胸に秘め、采女たちが待つ部屋へと向かった。


 ◇◇◇


 広間には、すでに采女たちが集まっていた。


 誰もが沈貴人の件について何かしらの思惑を抱いているはずだ。


 蘭雪は部屋を見渡し、一人ひとりの表情を確認する。


 沈芷蘭は静かに座し、何も言わずに蘭雪を見つめていた。馮蓮は手元の茶碗を弄びながら、興味深げに蘭雪を観察している。王茜は不機嫌そうに腕を組み、李紅梅は何か言いたそうに蘭雪を見つめていた。


 周雪音は落ち着かない様子で目を伏せ、楊霜は冷静に沈黙を守っている。霍玲瓏は慎重に距離を取りつつ、場の成り行きを見極めようとしていた。


 蘭雪は彼女たちの前に立ち、ゆっくりと口を開く。


「皆、沈貴人様のことをどう思っていますか?」


 一瞬、静寂が訪れた。


 最初に沈芷蘭が口を開く。「……貴人様は、お優しいお方です」


 馮蓮が微笑む。「けれど、優しいだけでは生きられません」


 王茜が鼻で笑う。「その通り。貴人の位を持っているのに、何の影響力もない」


 李紅梅が低く言う。「だけど、それを支えるのが私たちでしょう?」


 蘭雪は静かに頷く。


「そうです。沈貴人様は、私たちの主です。だからこそ、私たちが支えねばなりません」


 周雪音が不安そうに口を開く。「……でも、どうすれば?」


 蘭雪は彼女の目をまっすぐに見つめる。「私たちが団結すれば、沈貴人様を支えられます」


 楊霜が冷静に言った。「そのために、何をするつもりですか?」


 蘭雪は微笑む。「まずは、後宮の誰が敵で、誰が味方かをはっきりさせます」


 霍玲瓏が興味深そうに目を細めた。「それは、どうやって?」


 蘭雪はゆっくりと采女たちを見渡し、確信を込めて言った。


「——葉貴妃様が、沈貴人様を見捨てた今が好機です」


「どういうこと?」王茜が眉をひそめる。


「沈貴人様は、葉貴妃様に助けを求めました。しかし、葉貴妃様はその手を振り払った。つまり、沈貴人様は葉貴妃様にとって不要な存在になったということです」


 采女たちは顔を見合わせる。


 馮蓮が微笑む。「それなら、葉貴妃様が次に狙うのは……?」


「沈貴人様に仕える私たちです」蘭雪がきっぱりと答える。


 緊張が走る。


「……つまり、私たちはもう後がないということね?」霍玲瓏が苦笑した。


 蘭雪は頷く。「そうです。ですが、それを逆手に取れば、私たちは強くなれます」


 王茜が訝しげに尋ねる。「逆手に取る?」


「ええ。沈貴人様が自ら動けば、後宮の勢力図を変えられるのです」


 沈黙。


 そして、沈芷蘭が小さく笑った。「……なるほど」


 蘭雪は続ける。「これまで沈貴人様は動かず、流れに身を任せていました。でも、今は違います。私たちが団結すれば、沈貴人様を支え、新たな勢力を作ることができる」


 李紅梅が腕を組みながら呟く。「……確かに、ただ従うだけでは生き残れないな」


 楊霜が目を細める。「つまり、沈貴人様に戦う意志を持たせる……ということですか?」


 蘭雪は微笑む。「そうです。そして、私たちがその力となるのです」


 霍玲瓏が「面白いわね」と小さく呟く。


 馮蓮が静かに言う。「……いいわ。あなたの策に乗る」


 周雪音は不安そうではあったが、小さく頷いた。「……私も」


 李紅梅がニッと笑う。「やってみる価値はあるな」


 沈芷蘭が慎重に言った。「では、どう動くのですか?」


 蘭雪はゆっくりと告げる。


「まず、沈貴人様を支援する後ろ盾を作ります。そのために、皇后様に接触しましょう」


 采女たちが息をのむ。


 蘭雪は静かに言った。


「……すべては、沈貴人様のために」


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