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第八十八節 沈貴人の誤算

 第八十八節 沈貴人の誤算


 夜の帳が下りる頃、沈貴人は密かに宮殿を出た。


 いつもより薄化粧で、淡い色の衣をまとい、装飾品も最小限に留めていた。これから向かうのは貴妃・葉容華の宮。


 沈貴人の侍女・沈芷蘭が不安げに後を追う。「貴人様、本当にご自分で行かれるのですか?」


「蘭雪を頼ってばかりではいられないわ」沈貴人は小声で言った。「私は、後宮で自分の居場所を守らなければならないの」


 沈芷蘭はなおも止めた。「ですが、葉貴妃様は——」


「話せば分かるはずよ」沈貴人は歩みを止めなかった。「私は戦うために行くのではないわ。和解を求めに行くのよ」


 沈芷蘭は何も言えなくなった。


 ——しかし、それが誤算だったことを、沈貴人はすぐに思い知ることになる。


 葉容華の宮。


 白檀の香が漂い、紅絹の帳が風に揺れる豪奢な空間の奥に、葉貴妃・葉容華がいた。


 華やかな刺繍を施した衣を纏い、琥珀の飾りを指で弄びながら、沈貴人を見下ろしていた。


「まあ……珍しいこともあるものね」


 その声音には、嘲りが混じっていた。


「沈貴人、自ら私の宮へ足を運ぶとは。何の用かしら?」


 沈貴人は静かに頭を下げた。「葉貴妃様、お願いがございます」


 葉容華は小さく笑った。「お願い?」


 沈貴人は緊張を悟られぬように口を開く。「どうか、これ以上私を敵視しないでいただけませんか?」


 広間が静寂に包まれる。


 やがて、葉貴妃はくすりと笑った。「敵視? 何のことかしら?」


「私の宮で起きたこと……毒の件……」


 葉貴妃は白々しく首を傾げる。「まさか、それを私の仕業だとでも?」


 沈貴人は慎重に言葉を選んだ。「決めつけるつもりはございません。ただ、私は貴妃様と争うつもりはないのです」


「争うつもりはない?」葉貴妃は冷笑した。「貴人、あなたは分かっていないのね。この後宮で生きるということは、戦うことなのよ」


 沈貴人の背筋が凍る。


 葉貴妃の眼差しは、まるで獲物を見据える猛禽のようだった。


「あなたが生き延びたこと自体、すでに『戦い』なのよ。皇后があなたを見限らないのも、あなたがこうして私の前に立っているのも……すべて、この後宮の戦の一環」


 沈貴人の手が、袖の中で震えた。


「……それでも、私は——」


「私はね、沈貴人」葉貴妃は微笑みながら言った。「敵に慈悲をかけるほど、お人よしではないのよ」


 その瞬間、帳の奥から侍女たちが現れ、沈貴人の周囲を囲んだ。


 沈貴人は息をのんだ。


 (……しまった)


 逃げ道はない。


 葉貴妃はゆっくりと立ち上がり、沈貴人の前に歩み寄った。


「あなたが何をしに来たのか知らないけれど、このまま帰れるとは思わないことね」


 沈貴人は必死に考えた。しかし、策は尽きていた。


 (蘭雪……)


 心の中で、彼女の名を呼んだ。


 ——そのとき。


「葉貴妃様、お許しを!」


 突然、広間の外から緊迫した声が響いた。


 侍女の一人が駆け込んでくる。「魏尚様がこちらへ向かっておいでです!」


 葉貴妃の表情が僅かに曇った。


「魏尚……?」


 次の瞬間、奥の扉が静かに開いた。


 そこに立っていたのは、宦官長・魏尚だった。




 広間の扉がゆっくりと開く。


 魏尚が静かに足を踏み入れた。


 彼は淡々とした表情で広間を見回し、そして、沈貴人の周囲を囲む侍女たちの姿を認めると、薄く笑った。


「おやおや……」魏尚の声は穏やかだったが、その背後に潜む圧が、場の空気を一変させた。「葉貴妃様、これは一体?」


 葉貴妃はすぐに微笑みを浮かべた。「これは……沈貴人が突然訪ねてきたものだから、少し話をしていたのです」


 魏尚は沈貴人に目を向けた。「左様で?」


 沈貴人は沈黙した。


 下手に言葉を発すれば、葉貴妃を公然と敵に回すことになる。しかし、このままでは誤魔化されるだけ——。


 その時、魏尚が一歩踏み出した。


「それはそれは。葉貴妃様が沈貴人に対して、それほどまでにご親切とは存じ上げませんでした」


 魏尚の言葉に、葉貴妃の笑みがわずかに引きつる。


 魏尚は続ける。「沈貴人は最近、体調が優れぬと聞いております。それを押してまで貴妃様のもとへ参られたとは、さぞ重要なお話があったのでしょう」


 葉貴妃は微笑んだまま、沈貴人を横目で見た。「ええ、そうね。沈貴人、あなたが言うべきことがあるのでは?」


 沈貴人はわずかに目を伏せた。


 魏尚はその様子を見て、軽く溜息をついた。「沈貴人のことは、皇后様がお気に召しているとか。後宮での立場も以前とは異なります」


 葉貴妃の表情がわずかに硬くなる。


 魏尚の言葉は婉曲的だったが、はっきりとした意味を持っていた。


 ——沈貴人に手を出せば、皇后を敵に回すことになると。


「そろそろ、沈貴人をお返しいただけませんか?」魏尚が静かに言った。


 葉貴妃はしばし沈黙したが、やがて微笑みを深めた。「もちろん。お引き止めしてしまったわね」


「お心遣い、感謝いたします」魏尚がゆっくりと一礼する。


 その間に、沈貴人は足元を固め、ゆっくりと身を翻した。


「では、私はこれで……」


 魏尚が優雅に後を促し、沈貴人は彼に付き従うように広間を後にした。


 背後で、葉貴妃の視線が突き刺さるのを感じながら——。


 魏尚と沈貴人が廊下を歩く。


「……申し訳ありません」沈貴人がぽつりと呟いた。


「何が?」魏尚は飄々とした口調で問い返す。


「私が勝手なことをしたばかりに、あなたにまで手を煩わせてしまいました」


 魏尚はくすりと笑った。「沈貴人、あなたはまだこの後宮を甘く見ていますね」


 沈貴人は言葉に詰まる。


 魏尚は続けた。「あなたが単独で葉貴妃のもとを訪ねるなど、あの方にとっては絶好の機会でしたよ。私が間に入らなければ、どうなっていたか……」


 沈貴人は身震いする。


 魏尚はそんな彼女の様子を横目で見ながら、静かに言った。「あなたが生き残りたければ、蘭雪を頼ることです」


 沈貴人は顔を上げた。


「……蘭雪を?」


「ええ」魏尚は微笑む。「彼女なら、あなたを守る策を講じるでしょう」


 沈貴人の胸に、これまでとは違う感情が広がる。


 自分が蘭雪を助ける立場であったはずなのに、いつの間にか自分が彼女に頼らなければならない状況になっている——。


「……分かりました」沈貴人は静かに頷いた。「蘭雪と話をします」


 魏尚は満足げに微笑んだ。「それがよろしいでしょう」


 そして、彼はふと立ち止まり、低く囁いた。


「沈貴人、これだけは覚えておいてください」


 沈貴人が不安げに魏尚を見つめると、彼は冷ややかに微笑んだ。


「この後宮で生きる者に、独断専行ほど危ういものはありません」


 沈貴人は無言のまま、魏尚の言葉を噛みしめた——。


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