第八十七節 蘭雪の孤立
第八十七節 蘭雪の孤立
翌朝。
沈貴人の宮の騒動は、すでに後宮中に広まっていた。「沈貴人は誰かに毒を盛られた」という噂が瞬く間に広がり、さまざまな憶測が飛び交っていた。
「沈貴人様はお優しすぎるから、狙われるのよ」
「それにしても、采女たちの統率が取れていないのでは?」
「蘭雪様が仕切っているそうだけれど……大丈夫なのかしら?」
采女たちの間でも、蘭雪への風当たりが強まりつつあった。
その日の昼下がり、蘭雪は沈貴人の宮の廊下を歩いていた。すると、背後から控えめな声が聞こえた。
「蘭雪様……」
振り向くと、沈芷蘭が立っていた。彼女は沈貴人の側近であり、沈貴人に最も忠誠を誓う采女である。
「何か?」蘭雪が静かに問いかけると、沈芷蘭は僅かに眉を寄せた。
「蘭雪様……私たちが沈貴人様をお守りするのです。貴方が深入りするべきではありません」
「どういう意味かしら?」
「貴方が沈貴人様のために奔走しているのは知っています。しかし……このままでは、蘭雪様ご自身が危うくなります」
蘭雪はその言葉を受け流すように微笑んだ。「私が危うくなる? それは一体、どういう意味かしら?」
沈芷蘭は沈黙し、しばらく逡巡した後、小さく溜息をついた。
「……皇后様は、蘭雪様が沈貴人様に執心しすぎていると見ておられます。貴人様が危険な目に遭うのは、蘭雪様が余計なことをしているからではないか、と」
蘭雪は表情を変えずに聞いていたが、内心では冷静に計算していた。
(皇后様は、私を試そうとしている……もし私が沈貴人に肩入れし続ければ、私の忠誠心を疑い、最悪の場合、後宮での立場を奪われる)
沈芷蘭はなおも続ける。「皇后様は、蘭雪様が沈貴人様に固執するならば、それなりの覚悟を問うつもりのようです」
「……つまり、皇后様は私に、沈貴人を見捨てるように求めている、ということね?」
沈芷蘭は否定しなかった。
蘭雪はふっと笑った。「皇后様のご意向を理解しました。でも、私は沈貴人様の相談役としてお仕えしています。それを今さら手放すのは……私の役目を放棄することになりますね」
沈芷蘭の顔が強張る。「ですが、このままでは蘭雪様が危険に——」
「沈芷蘭。あなたは、沈貴人様をお守りすることができるの?」
沈芷蘭は言葉に詰まった。
沈貴人は、後宮の権謀術数に長けているわけではない。単独で戦えるような人ではなく、策略に巻き込まれれば、たちまち落とし穴に嵌るだろう。沈芷蘭自身も、それを痛いほど理解しているはずだった。
蘭雪は静かに言った。「私は沈貴人様を助けます。でも、それだけでは足りません。あなたがたも、もっと力をつけるべきです」
沈芷蘭はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐き、頭を下げた。「……お言葉、肝に銘じます」
蘭雪は微笑み、「それでいいのよ」と告げた。
翌日、蘭雪は皇后の宮に呼ばれた。
朱塗りの柱がそびえ立つ大広間に足を踏み入れると、皇后・沈麗華が奥の玉座に座していた。
「蘭雪、ここへ」
沈麗華の声は冷静でありながら、どこか含みがある。蘭雪は裾を整え、慎重に歩み寄った。
「昨日のこと、聞いておりますよ」
蘭雪は目を伏せた。「はい。沈貴人様の膳に毒が仕込まれていました」
沈麗華は指先で茶碗を軽く叩いた。「蘭雪、あなたは沈貴人に深入りしすぎているのではありませんか?」
蘭雪は内心で警戒を強めた。これは皇后が私を試している。
「陛下の后妃たる者は、宮中の均衡を理解していなければなりません。あなたはまだ若く、采女の監督役を任されて間もない。それにもかかわらず、一人の貴人に偏りすぎれば——」
皇后は言葉を切り、蘭雪をまっすぐに見据えた。
「あなたの忠誠を疑わねばならなくなります」
部屋の空気が張り詰めた。
沈麗華の言葉は、警告であると同時に最後通告でもあった。
「沈貴人を切り捨てろ」
皇后はそう言外に告げているのだ。
蘭雪は沈黙したまま、心の中で答えを探した。
(沈貴人を切り捨てれば、私は皇后の信頼を得ることができる。しかし——)
(それでは私の信念に反する。私は、自分の選んだ道を貫きたい)
静寂の中、蘭雪はついに口を開いた。
「皇后様、お言葉の意味は重々承知しております。しかし、私は采女たちを監督する身として、公正であるべきだと考えております」
「公正?」
「沈貴人様の危機を見過ごせば、いずれ同じことが他の采女や妃嬪にも起こるでしょう。もしこれを不問にすれば、誰もが恐れを抱き、後宮は乱れます」
沈麗華は静かに蘭雪を見つめた。
「……つまり?」
「私は沈貴人様を守ります。ただし、それは皇后様に背くためではなく、後宮の秩序を守るためでございます」
沈麗華の目が細められた。しばらくの沈黙の後、皇后はふっと微笑んだ。
「……言うようになりましたね、蘭雪」
「恐れ入ります」蘭雪は頭を下げた。
沈麗華はしばらく蘭雪を見つめた後、ゆっくりと立ち上がり、静かに言った。
「よいでしょう。ならば、その信念がどこまで通じるか、見せてもらいます」
「……?」
「采女たちの訓練を強化しなさい。沈貴人を守れるかどうかは、あなたと彼女たち次第です」
蘭雪はその言葉の真意を理解し、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」




