第六節 噂の裏側
第六節 噂の裏側
蘭雪は沈貴人の宮を後にし、慎重に回廊を進んだ。
(やはり、あの噂は何かがおかしい)
「沈貴人が皇帝から玉玲瓏を賜った」
——この話が事実でないのなら、それを流布したのは誰なのか?
沈貴人自身が広めたのか、それとも別の意図を持つ者がいるのか——。
蘭雪は翡翠殿へ戻ると、机に向かい、静かに考えを巡らせた。
(沈貴人の宮にあった文には、「玲瓏はまだ私の手元にはない」と書かれていた)
つまり、沈貴人は少なくとも本物の玉玲瓏を手にしていない。
では、後宮中に広まっているあの噂は……?
「誰かが意図的に仕掛けたもの ということになる」
蘭雪は扇を閉じ、唇を引き結んだ。
(沈貴人を持ち上げるため? それとも、陥れるため?)
後宮で流れる噂のほとんどは、誰かの意図が絡んでいる。
「……沈貴人にとって、玉玲瓏を賜ったという噂は、都合がいいの?」
考え込んでいると、不意に、扉の外から声が聞こえた。
「蘭雪様、お話ししたいことがございます」
侍女の春燕だった。
蘭雪は「入りなさい」と告げる。
春燕はそっと室内へ入り、扉を閉じると、小声で言った。
「今朝方、妙な話を耳にしました」
「妙な話?」
「はい。『沈貴人は、玉玲瓏を持っていない』 と」
蘭雪の目が鋭く光る。
(このタイミングで?)
「誰がそんなことを?」
「それが……沈貴人付きの侍女の一人が、宦官と話していたのを聞いた のです」
(沈貴人の侍女……?)
「ですが、妙なのです。その話をした侍女は、まるで——」
「わざと誰かに聞かせるように 話していた、と?」
春燕は頷いた。
(……仕掛けた者がいる)
沈貴人が本当に玉玲瓏を持っていないのなら、この噂が広まることは彼女にとって不利になる。
つまり——。
(沈貴人を陥れようとしている者がいる……)
蘭雪は静かに目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「春燕、もう一つ調べてほしいことがあるわ」
「何でしょう?」
「この噂が最初に出たのは、いつ、誰からか——」
春燕は神妙な面持ちで頷いた。
「承知しました」
蘭雪は扇を軽く開き、瞳を細める。
(沈貴人に仕掛けたのは、誰?)
この噂の裏には、さらに別の思惑が隠されている——。
***
春燕が翡翠殿を出て間もなく、蘭雪は机の前で静かに扇を閉じた。
(沈貴人に仕掛けた者……誰が得をするのかを考えれば、答えは見えてくるはず)
沈貴人が皇帝から玉玲瓏を賜ったという噂は、後宮において彼女の地位を揺るぎないものにするものだった。
だが、それが嘘であると広まればどうなるか。
(沈貴人を信頼していた者たちは動揺し、敵対者たちは勢いづく)
そして、沈貴人の威光が揺らげば——その座を狙う者たちにとっては好機となる。
「……沈貴人の敵」
蘭雪は扇を指先で弾き、じっと考え込む。
(沈貴人は決して無防備な女ではない。にもかかわらず、ここまで大胆な噂を仕掛けられたということは——)
敵は、それなりの力を持つ者である可能性が高い。
「では、次に考えるべきは——」
蘭雪が思索を巡らせていると、廊下から小走りに近づく足音が聞こえた。
扉が軽く叩かれる。
「蘭雪様、戻りました」
春燕だった。
「入って」
春燕は素早く部屋に入り、扉を閉めると、小声で言った。
「分かりました。最初にこの噂を流したのは——張美人の侍女 です」
蘭雪は目を細めた。
「張美人……」
後宮の位としては沈貴人より低いが、彼女は最近、皇帝の寵愛を受け始めた妃の一人だった。
(張美人が沈貴人の座を狙っている?)
「春燕、その侍女は誰に向かって噂を話していたの?」
「宦官の一人です。彼は……」
春燕は言葉を選ぶように少し間を置き、それから低く続けた。
「魏尚に仕えている者でした」
蘭雪は扇を握る手に力を込めた。
(魏尚……)
宦官長・魏尚。
後宮の情報を掌握し、時に影から権力を操る男。
もし彼が関わっているのなら、単なる妃同士の争いでは済まされない。
「……春燕」
「はい」
「張美人の動向をもう少し探って。彼女が本当に仕掛け人なのか、それとも別の誰かに操られているのかを確かめる必要があるわ」
「承知しました」
春燕が下がると、蘭雪はそっと息を吐いた。
(沈貴人を陥れる動きがある……それが、魏尚と繋がっているなら)
ただの妃同士の争いではなく、後宮の権力構造そのものが動き始めているのかもしれない。
蘭雪は目を閉じ、そっと扇を開いた。
(次の一手は慎重に……)
この戦いは、まだ始まったばかりだ。
***
翡翠殿の静寂の中、蘭雪は机に向かいながら、沈貴人を巡る一連の出来事を整理していた。
(沈貴人が玉玲瓏を賜ったという噂——それを流したのは張美人の侍女)
(そして、その情報は魏尚の配下の宦官を経由している)
沈貴人が皇帝の寵を失えば、次に寵愛を受ける者がいる。
張美人が単独で動いたのか、それとも魏尚が背後で糸を引いているのか——。
扇を軽く閉じ、蘭雪は瞳を細めた。
(魏尚……あの男がただの観察者であるはずがない)
そこへ、春燕が戻ってきた。
「蘭雪様、お調べの件ですが……」
「何が分かった?」
「張美人の宮には、最近魏尚が何度か足を運んでいた ようです」
蘭雪の予想が確信へと変わる。
「……やはりね」
「さらに……妙な話を聞きました」
春燕は低い声で続ける。
「張美人が、『自分の後ろ盾は魏尚だ』と侍女たちに話していた そうです」
蘭雪は扇を軽く叩いた。
(張美人は、魏尚と組んでいる?)
後宮において、宦官が特定の妃を支えることは珍しくない。
彼らは皇帝に近い存在であり、情報を握り、時には権力を操る。
魏尚ほどの男が張美人を推しているとすれば、単なる妃同士の争いではなく、後宮の勢力図を塗り替える動きかもしれない。
「春燕、もう一つ調べてほしいことがあるわ」
「何でしょう?」
「魏尚が沈貴人に何か働きかけていた形跡があるかどうか」
「承知しました」
春燕が去ると、蘭雪は静かに思考を巡らせた。
(沈貴人を排除し、張美人を表舞台へ押し上げる……それが魏尚の狙い?)
(いや、それだけではないはず)
魏尚ほどの男が、単に後宮の妃の入れ替えに動くとは考えにくい。
(もっと大きな何かが動いている——)
蘭雪はゆっくりと扇を開いた。
(ならば、こちらも動くしかない)