第八十六節:沈貴人の疑念
第八十六節:沈貴人の疑念
翌日、蘭雪は慎重に采女たちを選び、沈貴人の宮へと向かった。霍玲瓏、馮蓮、楊霜――冷静な判断ができ、必要ならばすぐに動ける者たちだ。
(沈貴人が関与しているとしても、彼女が黒幕とは限らない)
沈逸が持ってきた布切れは確かな証拠だが、それだけで断定はできない。重要なのは、沈貴人自身の反応だった。
沈貴人の宮にて
「蘭雪様が参られました」
通されたのは沈貴人の書斎だった。そこには、沈貴人が一人、ゆったりと椅子に腰掛けていた。
「珍しいわね。あなたが私の宮を訪ねてくるなんて」
沈貴人は微笑を浮かべながらも、その目は蘭雪の意図を探るように鋭い。
「少し、気になることがありまして」
蘭雪は静かに切り出した。
「昨夜、私の宮に賊が入りました。そして、その者たちが貴人様の宮に出入りしていた形跡が見つかっています」
沈貴人の微笑がわずかに揺らぐ。
「……それは本当?」
「証拠もあります。もちろん、これが何を意味するかは断定できません。ただ、もし貴人様が何もご存じでないのであれば――」
蘭雪はゆっくりと視線を沈貴人に向けた。
「貴人様ご自身が、誰かに利用されている可能性があります」
沈貴人はしばらく黙っていた。だが、やがて軽くため息をつくと、手元の茶碗を静かに撫でながら言った。
「蘭雪……あなた、随分とやり手なのね」
沈貴人の声色には、かすかな苦笑が混じっていた。
「私の宮に出入りしていた采女たちが関与しているのは確か……けれど、私は何も知らないわ。そんな陰謀に関わるほど、私は愚かではないもの」
「では、誰かが貴人様の宮を利用している?」
沈貴人はゆっくりと首を傾げた。
「もしかすると……」
その時、沈貴人の表情がわずかに曇った。
「思い当たることが?」
沈貴人はしばし迷ったが、やがて小さく頷いた。
「最近、私の宮の采女の一人が突然いなくなったの……宦官たちは ‘体調を崩して里帰りした’ と言っていたけれど、何か腑に落ちないのよ」
「名前は?」
「陳双」
沈貴人の言葉に、霍玲瓏が小さく反応した。
「聞いたことがあります。彼女は貴人様の側近の采女で、賢く慎重な人物だったとか……」
「そうよ。だからこそ、突然姿を消したのが気になっていたの」
沈貴人は溜息をつくと、蘭雪に向き直った。
「あなたが ‘誰かに利用されている’ という話をした時、少し思い当たることがあったの。でも、私にも確信はないわ」
沈貴人の表情には、微かな不安が浮かんでいた。
(彼女は本当に何も知らない……? それとも、まだ話せないことがあるのか……)
蘭雪は静かに考えながら、決断した。
「分かりました、貴人様。私たちも ‘陳双’ の行方を探ってみます」
沈貴人はゆっくりと頷いた。
蘭雪の決断
沈貴人の宮を出た後、霍玲瓏が低く囁いた。
「……彼女、本当に ‘知らない’ と思いますか?」
蘭雪は少し考えた後、静かに答えた。
「完全に ‘知らない’ わけではないでしょう。でも、少なくとも ‘主導者’ ではない」
馮蓮が腕を組んで言う。
「となると、やはり ‘陳双’ ですね。彼女が何かの鍵を握っている可能性が高い」
蘭雪はゆっくりと息を吐きながら、次の策を考えた。
(次は ‘陳双’ の行方を追う……それが、この陰謀の核心に近づく鍵になる)
彼女の目に、静かな決意が宿った。
@@@ 沈貴人の宮にて
夜の静寂を破る悲鳴が、沈貴人の宮を震わせた。
「毒が……毒が盛られておりました!」
女官の震える声が、闇夜に鋭く響く。灯火が次々と灯され、沈貴人の寝宮が明るく照らされる。湯気の立つ食膳が乱れ、器の一つが床に落ちて割れていた。
沈貴人は蒼ざめた顔で座したまま、身じろぎもせずにいた。その傍らには、顔をこわばらせた采女たちがひしめき、誰もが言葉を失っている。
蘭雪は一歩前へ進み、割れた器を見下ろした。白粥の中に溶けかけた不純物が見えた。沈貴人の膳のみに仕込まれた毒……その意図は明白だった。
「どのような毒か、確かめましたか?」蘭雪は静かに問う。
傍らの薬師が震える手で答える。「微量ですが、蛇蠍散と思われます。服せば即死は免れるものの、激しい嘔吐と衰弱を招きます……」
「誰がこれを用意したのか、心当たりは?」
「そ、それが……厨房の者たちは、誰も手を加えてはおりませんと……」
沈貴人は愕然としたまま、かすれた声を漏らす。「私は……私は、誰かに命を狙われているのですね……」
蘭雪はそっと彼女の手を取り、優しく握った。「今は動揺なさらぬように。これを仕掛けた者の狙いは、貴人様を混乱させることです」
その時、外から足音が響き、采女筆頭の柳清が駆け込んできた。
「皇后様よりお達しです。この件は直ちに調査し、犯人を突き止めよ、とのことです」
沈貴人は不安げに蘭雪を見つめた。「蘭雪……どうすれば……」
蘭雪はわずかに目を細め、周囲を見渡した。宮中で毒を盛るという行為は、単なる嫌がらせでは済まされぬ。誰かが沈貴人を失脚させようとしている。
(だが、それだけではない……これは、沈貴人に疑心を抱かせるための策ではないか?)
蘭雪は静かに息を吐き、決意した。「まず、誰が得をするのかを探りましょう」




