第八十節 狩猟の宴
第八十節 狩猟の宴
秋の風が静かに草木を揺らす。宮中を離れた一行は、広大な狩場へと到着していた。
天瑞王朝の伝統として、皇帝は年に一度、秋の狩猟を催す。表向きは祭祀の一環であり、武勇を示す場でもあったが、実際には皇帝が忠誠を測る重要な機会でもあった。
慶成帝は金糸を織り込んだ狩衣をまとい、黒馬にまたがる。威風堂々たるその姿に、随行する武官や廷臣たちは畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
蘭雪もまた、采女たちと共に控えの帳の中にいた。狩猟には直接参加しないが、皇帝に供する役目として同行を許されたのだ。
「陛下、いかがでしょう。この秋の狩りは、例年以上に実り多いものとなるかと」
宦官長・魏尚が恭しく一歩進み出る。その笑みは穏やかだが、その目は細く鋭い。
「ふむ……」
慶成帝は遠くの森を見つめる。
「今年は狼の群れが増えていると聞くが」
「はい。精鋭の弓隊を配置しておりますので、問題はございますまい」
魏尚が一礼したときだった。
「陛下、どうかご武運を」
澄んだ声が響く。
蘭雪だった。
彼女はそっと袖を重ね、深々と頭を下げた。その慎ましい姿に、慶成帝は微笑を浮かべる。
「蘭雪、お前はどう思う。この狩猟、何か予感はあるか?」
一瞬、周囲の空気が張り詰めた。
皇帝が采女の言葉を求めるのは異例だった。
魏尚もその反応を見逃さなかった。
蘭雪は慎重に言葉を選ぶ。
「この秋風は、嵐を運ぶこともございます。陛下におかれましては、くれぐれもご用心を」
「ほう?」
慶成帝は興味深そうに蘭雪を見た。その瞳には、単なる警句ではない何かを感じ取ったようだった。
「言葉の裏には何がある?」
蘭雪は静かに瞳を伏せた。
「……ただの采女の杞憂にございます」
慶成帝は笑みを深め、手綱を握ると、前方へと馬を走らせた。
「ふむ、ならば確かめるとしよう」
魏尚はそのやりとりを眺めながら、意味ありげに目を細めた。
「嵐、ですか……。ふふ、面白い」
彼の目はすでに何かを見通しているようだった。
狩猟が始まると、皇帝は弓を引き、次々と獲物を仕留めていった。臣下たちはその腕前に感嘆し、盛んに賞賛の声を上げる。
だが、蘭雪は胸の奥に奇妙な違和感を覚えていた。
(……何かが、おかしい)
風が変わった。森の奥から、ただならぬ気配が漂ってくる。
「——陛下!」
突如、鋭い叫び声が響く。
瞬間、森の茂みが激しく揺れ、黒衣の影が飛び出した。
刺客——!
閃光のように抜かれる刃。皇帝を狙うその手が、一直線に迫る。
「下がれ!」
魏尚が鋭く叫び、護衛の武官たちが即座に応戦する。だが、刺客の動きは異様に速かった。
そのとき——。
「……!」
矢が放たれた。
見事な弓さばきで、刺客の腕を貫く。
「沈逸!」
誰かが叫んだ。
蘭雪は息をのむ。
沈逸が馬上から冷静に弓を構え、再び矢をつがえる。その表情はいつになく真剣だった。
「捕えよ!」
魏尚の号令と同時に、武官たちが刺客を取り囲む。しかし刺客は最後の力を振り絞り、自らの喉を突いて息絶えた。
沈逸は弓を下ろし、魏尚は冷たく呟く。
「……見事な手際。ですが、これで終わりではないでしょう」
狩猟は中止され、一行は急ぎ宮へ戻ることになった。
蘭雪はふと、皇帝の馬上の視線を感じた。
——慶成帝がじっと、彼女を見ていた。
それは、ただの偶然なのか。それとも——。
蘭雪は沈黙したまま、宮へと続く道を見つめた。
(嵐は、まだ始まったばかり)
狩猟の刺客事件から数日が経ち、宮中には緊張が張り詰めていた。
事件の背後には、宮中の勢力が関与している可能性が高い。だが、確固たる証拠はなく、誰もが静かに事態を見守るしかなかった。
そんな中、思いもよらぬ報せが後宮に響く。
「皇太后様より、后妃選定の勅命が下りました!」
采女たちがざわめく。
皇太后が新たな后妃を迎え入れる——それはすなわち、後宮の勢力図が大きく塗り替えられることを意味していた。
「蘭雪、お前も参れ」
皇后・沈麗華の言葉に、蘭雪は驚きを隠せなかった。
「私も、でございますか?」
「当然だ。お前は今や采女筆頭として、後宮のことを取り仕切る立場にあるのだからな」
皇后は静かに言ったが、その目は慎重に蘭雪を見据えていた。
蘭雪は息を整え、深く一礼する。
「かしこまりました」
——皇太后の后妃選定。
これは単なる后妃の補充ではない。
後宮の覇権をめぐる、皇后と皇太后の暗闘の始まりだった。
皇太后・顧太后が催した后妃選定の場には、各地から集められた才媛たちが並んでいた。
彼女たちは皆、美貌と教養を兼ね備えた名門の令嬢たちである。
その中には、特に目を引く者がいた。
「蘭貴人、陛下の御前で詩を」
呼ばれたのは、蘭雪と同じ「蘭」の名を持つ美貌の才媛だった。
蘭貴人——蘭雪はその名に、かすかな違和感を覚えた。
(この者は……?)
彼女は静かに様子を見守る。
蘭貴人は清らかな声で詩を詠み、皇太后も満足げに頷く。
「見事な詩才だ。陛下もお気に召すであろう」
皇太后は意味深に微笑んだ。
(……なるほど。皇太后様のお気に入り、ということか)
蘭雪は沈黙したまま、状況を見極める。
やがて、后妃の選定が終わり、新たな人々が後宮に迎えられることが決まった。
蘭貴人をはじめとする新たな后妃たちの登場により、宮中の均衡は大きく揺らぎ始める——。
(嵐は、これから激しさを増す)
蘭雪はそっと袖を握りしめた。




