第七十九節 皇帝の誘い
第七十九節 皇帝の誘い
紫蘭殿の宴から数日が経った。
蘭雪は、その間も慎重に宮中の動きを見極めていた。
詩の対決を通じて慶成帝の関心を引いたことは、宮中の女官や妃嬪たちの間で瞬く間に広まっていた。
「蘭雪様は、やはりただの新人ではなかったのね」
「皇帝陛下があれほどお褒めになったのですもの。きっとこれからますます寵愛を受けるわ」
そうした囁きを耳にするたび、蘭雪は静かに微笑みながらも、心の中では警戒を強めていた。
(私の立場は、今まさに変わろうとしている——)
皇帝の寵愛を得るということは、同時に多くの敵を生むということでもある。
皇后が表向きには彼女を持ち上げつつも、その動向を厳しく注視していることは明白だった。
さらに、魏尚の動きも気になる。
彼はあの夜、蘭雪の詩を聞いたあと、何も言わずに微かに笑っただけだった。
(私を試しただけなのか……それとも、別の意図があるのか)
そんな思案を巡らせているうちに、遂に慶成帝からの正式な召しが下った。
「蘭雪様、陛下が御前へ参るようお望みです」
宦官の低い声が、蘭雪の胸を僅かに締めつけた。
ついに、皇帝と二人きりで話す時が来た——。
◇◇◇
宵の帳が降りる頃、蘭雪は静かに御殿の廊下を歩いていた。
宦官に先導され、たどり着いたのは皇帝の御座す乾清宮。
豪奢な帳が揺れ、静寂が満ちる中、蘭雪は一歩ずつ奥へと進んだ。
「陛下、蘭雪様をお連れいたしました」
宦官が恭しく告げると、奥から穏やかな声が響いた。
「入れ」
蘭雪は深く息を整え、静かに膝を折った。
「臣女・蘭雪、陛下の御前に参りました」
目の前には、広々とした書斎の一角に座す慶成帝の姿があった。
彼は金糸の刺繍が施された衣を纏い、手元の書物をめくっていたが、やがて顔を上げると、微笑を浮かべた。
「よく参ったな。楽にせよ」
「ありがたき幸せにございます」
蘭雪は静かに立ち上がり、慎ましく距離を保ちながら皇帝を見やった。
「そなたの詩、あれから何度か思い返していた」
慶成帝は机に肘をつき、蘭雪をじっと見つめる。
「そなたは、誠を重んじると言ったな」
「……はい」
「では、そなたに問おう」
皇帝はゆっくりと立ち上がると、蘭雪へと歩み寄った。
「そなたは、朕のもとで何を望む?」
その問いは、まるで蘭雪の心の奥を探るかのように響いた。
蘭雪は一瞬、視線を伏せたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「私は、ただ陛下のおそばで学ぶ機会を得たことに感謝しております」
「ふむ……慎ましい答えだな」
慶成帝は微かに笑った。
「だが、そなたほどの才があるなら、もっと別の道もあるのではないか?」
「別の道……?」
「たとえば——」
皇帝は蘭雪の目を覗き込むようにしながら、静かに言葉を継いだ。
「朕のそばに仕えることを、本当にそれだけの意味だと思うか?」
その言葉に、蘭雪の胸が微かに高鳴る。
(これは……試されているの?)
皇帝は彼女に何を求めているのか。
この問いにどう答えるかで、彼女の立場は大きく変わる。
——蘭雪は、慎重に言葉を選ばねばならなかった。
(私は、どこまで踏み込むべきなのか——)
慶成帝の問いが、静寂の中に響いた。
「朕のそばに仕えることを、本当にそれだけの意味だと思うか?」
蘭雪は、慎重に呼吸を整えながら、皇帝の視線を受け止めた。
(この問いにどう答えるかで、私の今後の立場が決まる——)
皇帝はただの興味でこの言葉を投げかけたわけではない。
彼は、蘭雪の真意を試しているのだ。
「陛下のもとで学ぶことは、宮中で生きる私にとって何よりの幸せでございます」
蘭雪は、あくまで慎ましく、しかしはっきりと答えた。
「それが、そなたの答えか?」
「はい。——しかし、もし陛下が私に求めるものがあるのなら、臣女はそれに背くことはいたしません」
皇帝は、その言葉をしばし噛みしめるように沈黙した。
そして、やがて小さく笑った。
「そなたは賢いな」
その声音は、どこか愉快そうでもあった。
「正面から答えず、しかし朕を拒むこともしない」
蘭雪はゆっくりと頭を下げる。
「恐れながら、私はまだ至らぬ身。宮中の理を深く学ぶには、まだ時間が必要でございます」
「ほう……?」
慶成帝は微かに眉を上げた。
「それはつまり、いずれは学びを終えた暁に、そなたも朕のそばで違う役割を担うと?」
蘭雪は、わずかに微笑んだ。
「——陛下が、それをお望みならば」
皇帝は、再び沈黙した。
そして、次の瞬間——。
「面白い」
慶成帝は、低く笑った。
「そなたの言葉は、まるで宦官長・魏尚を思わせる」
その名に、蘭雪の指先がわずかに冷えた。
(魏尚……?)
「魏尚もまた、決して明言はしない。だが、その意図は常に朕を惹きつけるものだ」
慶成帝は、ゆっくりと蘭雪を見つめる。
「そなたも、魏尚と同じように、己が才をもって後宮の中で立場を築くつもりか?」
その問いには、明確な試しの意図があった。
蘭雪は、慎重に考えながら、ゆっくりと口を開く。
「私は、まだ何者でもございません。ですが——」
彼女は皇帝を真っ直ぐに見つめた。
「陛下のもとで、己を磨きたく存じます」
皇帝の唇が、かすかに持ち上がった。
「ふむ……では、そなたに機会を与えよう」
彼は机に置かれた一枚の書を手に取ると、蘭雪の前に差し出した。
「これは……?」
「年に一度、秋の狩猟の宴が行われる。その後で宮中で文人たちを招いた雅会を開く。そなたもその場に参加せよ。狩猟の宴にもな」
蘭雪の胸が、小さく波打つ。
「陛下……私のような者が、そのような席に?」
「そなたは、先の夜宴で己が才を証明したではないか」
皇帝の声は、どこまでも穏やかだった。
「ならば、今度は宮廷の学士や詩人たちの前で、それを示せ」
蘭雪は、手元の書を見つめた。
この雅会が、単なる文化的な催しではないことは明らかだった。
そこに集まるのは、後宮の妃嬪だけでなく、文官たち——つまり、皇帝の政治に関わる者たちもいる。
(これは、皇帝が私をどこまで試すつもりなのか……)
「そなたには、学びを求める志があるのだろう?」
慶成帝は、穏やかに言葉を紡ぐ。
「ならば、この場はそなたにとって最良の機会となるはずだ」
蘭雪は、静かに息を整えた。
「……仰せのままに」
彼女が深く頭を下げたとき、皇帝の瞳が鋭く光った。
——これは、単なる宴ではない。
この雅会の場で、蘭雪の立場がまた変わる。
皇帝が彼女に何を求め、何を見極めようとしているのか——
そして、皇后や魏尚がどのように動くのか。
蘭雪は、この機会を無駄にはできなかった。




