第七十八節 皇帝の意図
第七十八節 皇帝の意図
魏尚の部屋を辞した後、蘭雪は紫蘭殿へと戻る道すがら、沈逸とすれ違った。
「やけに浮かない顔だな」
沈逸は立ち止まり、彼女をじっと見つめた。
「魏尚と話したのか?」
蘭雪は軽く頷いた。
「ええ……詩会について」
沈逸はわずかに目を細めた。
「皇后だけでなく、陛下までもがお前の動向を気にしているとなると、事は穏やかではないな」
蘭雪は沈逸の言葉に、かすかに微笑んだ。
「それはつまり、私が無視できない存在になったということでもあるわ」
沈逸は苦笑しながら肩をすくめた。
「……なるほどな。だが、目立つということは、それだけ敵も増えるぞ」
「承知の上よ」
蘭雪は静かに言い、沈逸を見つめた。
「それに、貴方がいるでしょう?」
沈逸は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに口元に微笑を浮かべた。
「はは……頼りにされるのは悪くないな」
「けれど、何か策があるのなら、教えてくれてもいいのよ?」
蘭雪が探るように尋ねると、沈逸はわざとらしく首を傾げた。
「さあな。俺はただ、少し面白いものが見られれば満足だ」
「……意地悪ね」
蘭雪は小さくため息をつき、紫蘭殿へと足を進めた。
沈逸はその背中を見送りながら、低く呟いた。
「……俺の方こそ、お前の出方を見たいんだよ」
◇◇◇
詩会の当日——
紫蘭殿の広間には、華やかな装いの妃嬪たちが集まり、文人や宮廷詩人たちが一角に控えていた。
慶成帝は玉座に座し、その傍らには皇后が優雅に控えている。
蘭雪は他の妃嬪たちと共に席についたが、周囲の視線をひしひしと感じていた。
「このような場に出てくるなんて……蘭雪様はずいぶんと自信がおありのようですわね」
隣に座る沈貴人が、皮肉げな笑みを浮かべながら囁いた。
「才媛と持て囃されるのも、楽ではありませんわ」
蘭雪は微笑みながら応じた。
「けれど、詩は競うものではなく、心を映すものです」
「まあ……お優雅なこと」
沈貴人はあざ笑うように目を細めたが、その視線には明らかな警戒が滲んでいた。
魏尚が前に進み出て、ゆったりと一礼する。
「陛下、本日は宮中の才ある方々を集め、詩会を催します。どうかお楽しみくださいませ」
慶成帝は微かに頷き、手を軽く上げた。
「よい。皆の才を見せてみよ」
最初に詩を披露したのは、葉容華だった。
彼女は柔らかな声音で秋の風情を詠んだ美しい詩を奏で、周囲の称賛を浴びた。
次いで、他の妃嬪たちが次々と詩を披露する。
やがて、魏尚が蘭雪の方を向いた。
「蘭雪様、あなたも一篇、詠んでいただけますか?」
蘭雪は静かに頷き、ゆっくりと立ち上がった。
(この場でどんな詩を詠むか……それが、今後の私の立場を決める)
蘭雪は深く息を吸い、袖を優雅に翻すと、澄んだ声で詩を詠い始めた——。
紫蘭殿の広間に、蘭雪の澄んだ声が響く。
「雲は悠々と天を流れ
水は静かに地を巡る
月はその光を惜しみなく照らし
風は万象の囁きを伝える」
「花は散れども香は残り
鳥は去れども音は響く
ただ誠のみが時を越え
君の御もとに続かんことを——」
詩を詠み終えると、しばしの静寂が広間を満たした。
やがて、誰かが小さく息を呑む音が聞こえ、次第に囁きが広がる。
「……なんと見事な詩でしょう」
「ただ美しいだけでなく、深い意味が込められているわ」
「まるで、時を超えて陛下への忠誠を誓うような……」
妃嬪たちがひそひそと囁く中、慶成帝はじっと蘭雪を見つめていた。
「面白い詩だな」
低く響く声に、蘭雪は静かに頭を下げた。
「恐れながら、未熟な詩ではございますが、陛下のお心に届きましたなら幸いにございます」
慶成帝はしばらく考えるように指で盃の縁をなぞり、それから笑みを浮かべた。
「よい詩だ。お前の心がよく伝わってくる」
その言葉に、皇后の表情が微かに揺らいだ。
「まあ……蘭雪様は本当に才に恵まれていらっしゃるのですね」
皇后は優雅に微笑みながらも、その瞳には冷ややかな光が宿っていた。
「陛下がお気に召されたのなら、宮中の詩会にも蘭雪様をお招きするのがよろしいのではなくて?」
皇后の提案に、慶成帝は興味深そうに蘭雪を見やる。
「ふむ……たしかに、宮中の文人たちと語らう機会を持つのもよいだろう。蘭雪、お前も参加するがよい」
「ありがたき幸せにございます」
蘭雪は恭しく頭を下げたが、心の中では慎重に思案していた。
(皇后様……私をさらに表舞台へ押し出すおつもりね)
詩の才能を認められ、宮中の文人との交流を許されることは、一見すれば栄誉に見える。
だが、それは同時に、より多くの視線に晒されるということでもあった。
皇后の意図がどこにあるのか、慎重に見極めねばならない。
◇◇◇
宴が終わり、蘭雪が紫蘭殿へ戻ろうとしたとき、背後から低い声がかかった。
「蘭雪」
振り向くと、そこには慶成帝が立っていた。
「陛下……」
蘭雪はすぐに膝を折り、恭しく礼を取る。
「そなたの詩、なかなか興味深かった」
慶成帝はゆっくりと近づき、蘭雪を見下ろした。
「そなたは、忠誠を詠んだのか?」
蘭雪は一瞬、戸惑いながらも微笑んだ。
「陛下の御前に仕える身として、私の想いを詠ませていただきました」
「……そうか」
慶成帝は意味深な微笑を浮かべ、蘭雪をじっと見つめる。
「そなたには、また話したいことがある」
「——陛下?」
「後日、朕のもとへ参れ」
そう言い残し、慶成帝は静かに去っていった。
蘭雪はその背を見送りながら、胸の奥に新たな緊張を覚えていた。
——皇帝の真意とは何なのか。
そして、蘭雪の立場は、どこへ向かうのか——。




