第七十七節 皇后の思惑
第七十七節 皇后の思惑
御花園での「偶然の対面」から戻った蘭雪は、紫蘭殿の静けさの中で思索を巡らせていた。
麗昭媛の言葉、微妙な牽制、そしてそれを仕組んだ者の意図——。
(この動き……やはり皇后様の手かしら?)
皇后は蘭雪を後宮の「才媛」として持ち上げつつも、決して自由にはさせない。
その意図を探るためにも、蘭雪は慎重に動かねばならなかった。
その時、外から青蘭の声が聞こえた。
「蘭雪様、皇后様のお召しです」
蘭雪は一瞬だけ目を伏せる。
(……やはり来たわね)
◇◇◇
長秋宮——皇后の居所。
磨き上げられた瑠璃の床、天井に描かれた精緻な鳳凰の図。
この宮殿に踏み入るたび、蘭雪はここがまさしく「後宮の頂点」であると感じる。
「蘭雪様、お待ちしておりましたわ」
皇后・蕭淑妃は、蓮の花を思わせる穏やかな微笑を浮かべていた。
「お呼びに預かり光栄にございます」
蘭雪が恭しく膝を折ると、皇后は優雅に手を振った。
「まあ、そんなに畏まらずともよいのよ。あなたとは、もう少し親しくお話ししたいと思っておりました」
「……過分なお言葉、恐れ入ります」
蘭雪は慎重に顔を上げた。
「実はね、あなたに一つお願いがあるの」
皇后の声は柔らかかったが、その目の奥には冷静な光が宿っている。
「お願い、にございますか?」
「ええ。近々、宮中で文人を招いた詩会を開こうと思っているの。あなたも参加なさいな」
蘭雪は一瞬だけ考えた。
これはただの詩会ではない。
先日の宴で蘭雪が詩才を示したことで、宮中では「蘭雪こそが才媛」との評判が立ち始めている。
皇后はそれをさらに強め、蘭雪を「文化的な顔」として前に出そうとしているのだ。
だが、それが皇后にとって都合がいいのは明らかだった。
(私を表舞台に押し出し、敵を増やさせるおつもりね……)
「ありがたき幸せにございます。お導きに従い、精一杯努めさせていただきます」
蘭雪は穏やかに頭を下げた。
皇后は満足げに微笑む。
「それはよかった。詩会の準備については、また改めてお話ししましょう」
皇后の声には、もはや命令の響きがあった。
蘭雪は丁寧に礼をして長秋宮を辞した。
(この詩会……慎重に挑まねばならないわね)
蘭雪は、皇后の「思惑」に気を配りながら、新たな策略を練り始めた。
皇后からの召しに応じた翌日、蘭雪は紫蘭殿の書房で静かに筆を執っていた。
長秋宮から戻る道すがら、彼女の脳裏には絶えず皇后の言葉が反芻されていた。
(宮中の文人を招いた詩会……私を利用する目的は明白ね)
(私を「才媛」として持ち上げ、後宮の象徴に仕立て上げることで、私を皇后の配下のように見せる)
一見すれば褒めそやし、恩寵を与えるかのように見えても、そこには罠がある。
蘭雪が目立てば目立つほど、他の妃嬪たちの嫉妬を煽り、新たな敵を生むことになるだろう。
それこそが皇后の狙いだった。
「蘭雪様、よろしいでしょうか?」
青蘭が控えめに部屋へと足を踏み入れる。
「先ほど、魏尚様の使いがまいりました」
「……魏尚様が?」
蘭雪は筆を止めた。
魏尚——後宮を支配する宦官長。
彼はただの皇帝の忠臣ではなく、後宮の秩序を操る「影の支配者」でもあった。
「何のご用件?」
「それが……詩会について、直接お話ししたいと」
蘭雪は思わず目を細めた。
(皇后の計画に、魏尚も関与している……?)
彼がわざわざ使いを寄こす以上、単なる関心ではない。
彼もまた、詩会を利用しようとしているのだろう。
蘭雪は軽く唇を引き結び、ゆっくりと立ち上がった。
「わかった。魏尚様のもとへ向かいましょう」
◇◇◇
内侍省の一角——
蘭雪が通されたのは、内侍省の奥にある静かな一室だった。
魏尚は既に席に着いており、机の上には香炉が焚かれ、ほのかな沈香の香りが漂っていた。
「お待ちしておりましたよ、蘭雪様」
魏尚はいつものように穏やかな笑みを浮かべたまま、蘭雪を迎えた。
「このような場所にお招きいただき、恐れ入ります」
蘭雪は慎重に礼をし、魏尚の向かいに腰を下ろした。
魏尚は細い目をさらに細めながら、ゆったりと茶を注いだ。
「皇后様からの詩会の件……すでにお聞きでしょう?」
「はい」
蘭雪は静かに頷いた。
「陛下も、この詩会には関心をお持ちのご様子」
魏尚は茶碗を手に取り、優雅にひと口含んだ。
「皇后様の意向もあり、宮中の才ある者を集め、文化の興隆を図るという名目ではありますが……」
蘭雪は彼の言葉の先を待った。
魏尚はゆっくりと茶碗を置き、微笑んだ。
「……これは、ただの雅な集まりではありません」
蘭雪の指が、袖の中でわずかに動いた。
「どういう意味でしょう?」
魏尚はゆっくりと顔を上げ、蘭雪を見据えた。
「皇后様の意図はさておき、陛下はこの機会に“ある者”の力量を測ろうとしておられます」
「“ある者”……?」
「それはもちろん、あなたです」
魏尚の言葉に、蘭雪は僅かに息をのんだ。
(……皇帝陛下が、私を?)
「陛下は、あなたが単なる才媛か、それとも後宮でのし上がる器を持つ者かを見極めようとしておられる」
魏尚の声は、まるで淡々とした調べのようだった。
「詩会は、あなたにとって試練の場ともなるでしょう」
蘭雪は静かに視線を落とし、思考を巡らせた。
皇后だけでなく、魏尚も、そして皇帝までもが詩会に注目している。
それはつまり、彼女がこの場でどのように振る舞うかによって、後宮での立場が大きく変わるということ。
(私がこの試練をどう乗り切るか……慎重に策を練らねばならないわ)
魏尚は微笑んだまま、優雅に手を振った。
「蘭雪様、私はあなたがどのようにこの局面を乗り越えるのか……楽しみにしておりますよ」
蘭雪は静かに頭を下げながら、密かに決意を固めた。
詩会——それは、ただの雅な催しではなく、後宮の命運を分ける戦いの場となる。




