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第七十六節 不穏な噂

 第七十六節 不穏な噂


 皇后からの贈り物を受け取った翌日、蘭雪は紫蘭殿の庭で書をしたためていた。柔らかな春風が頬を撫で、静寂の中で筆を運ぶ音だけが響く。


 青蘭がそばで硯に水を注いでいたが、どこか落ち着かない様子だった。


「蘭雪様……」


「どうしたの?」


 青蘭は躊躇いがちに言葉を選ぶようにしてから、小声で告げた。


「妙な噂が流れております……蘭雪様が、皇后様の庇護を受けたとか」


 蘭雪は筆を止めた。


「……なるほど」


 思ったよりも早い。


 皇后が自分に贈り物をしたことが後宮に知れ渡るのは時間の問題だったが、それが”庇護”という形で広まるのは計算のうちだった。


(皇后様は、私を後宮の中で”自身の配下”として印象付けるつもりね)


 蘭雪が皇帝の関心を引いたことで、他の妃嬪たちが警戒し始めるのは必然だった。その矢面に立たぬよう、皇后は”自分が蘭雪を導いている”という形にして、周囲をけん制しようとしているのだ。


「誰がその噂を?」


「確かなことは分かりませんが……麗昭媛の侍女たちが口にしていたとか」


 蘭雪は静かに目を伏せる。


 麗昭媛——皇后派の側近ではあるが、ここ最近は皇后との距離が微妙に開いていると聞いていた。


「彼女は皇后様の意図を理解しているかしら?」


「それは……分かりません。ただ、ここ数日、麗昭媛様は少し焦っているように見えました」


 焦り——。


 それは、自分の立場が揺らぎつつある者が抱く感情だ。


 皇后の庇護を受けていると見なされた蘭雪に対し、麗昭媛が敵意を抱けば、何か仕掛けてくる可能性は十分にある。


「蘭雪様、どうなさいますか?」


 青蘭の声には、不安がにじんでいた。


 蘭雪は微笑を浮かべ、筆を再び持ち上げた。


「……まずは様子を見ましょう。噂がどこまで広がるか、そして誰がどのように動くのか」


 彼女はゆっくりと筆を走らせる。


 ——後宮では、噂こそが最も鋭利な刃となる。


 そして、それを制する者こそが、生き残るのだ。





 蘭雪が紫蘭殿で静かに過ごしていた翌日、宮中ではある出来事がささやかれ始めていた。


「麗昭媛様と蘭雪様が、偶然にも御花園で顔を合わせたらしい」


 偶然——。


 それは、宮中ではあまりにも出来すぎた言葉だった。


 ◇◇◇


 昼下がりの御花園。


 蘭雪は青蘭を伴い、静かに花々を眺めながら歩いていた。


 紫蘭殿に籠もるばかりでは、かえって警戒を招く。


 何事もないように振る舞うことこそ、最も効果的な策となる。


 だが、その静寂を破るように、前方からしなやかな歩みの音が近づいてきた。


「まあ、これは……奇遇ですわね」


 軽やかに響く声音——。


 蘭雪が振り向くと、そこには麗昭媛が立っていた。


 薄桃色の刺繍が施された衣をまとい、髪には精巧な玉飾りが揺れる。


「麗昭媛様」


 蘭雪は静かに一礼する。


「偶然とはいえ、お会いできるとは光栄ですわ」


 麗昭媛は微笑みながら近づき、ゆったりと袖を揺らした。


「私もよ。けれど、あなたが御花園を散策なさるとは意外ですわね」


「時折、静かな場所で風を感じるのも良いものです」


「ふふ、そうですわね」


 言葉の端々に、探るような気配がある。


「それにしても、最近は蘭雪様のお噂をよく耳にいたしますわ」


「……お噂?」


「ええ、皇后様のご寵愛を受けられたとか」


「恐れ多いことです。ただ、皇后様にはお目をかけていただいているだけ」


「まあ、謙虚ですこと。でも……お気をつけになって」


 麗昭媛の声がわずかに低くなる。


「皇后様は慈悲深いお方ですが、それゆえに、そのお心を利用しようとする者も多いのです」


「……ご忠告、痛み入ります」


 蘭雪は微笑みを崩さない。


 麗昭媛の言葉は、一見すると心配するように聞こえるが、その実、「皇后の信頼を得たと錯覚しないように」という牽制でもあった。


「では、私はこれで」


 麗昭媛は優雅に微笑むと、付き従う侍女たちを従えて去っていった。


(これは……単なる偶然ではない)


 蘭雪はゆっくりと息を吐く。


 誰かが、この『偶然』を仕組んだのだ。


 麗昭媛の焦り、皇后の策略、そして——背後に潜む影。


 次の一手を誤れば、ただの駒にされる。


 蘭雪は、静かに次の策を練り始めた。






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