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第七十五節 皇后の試み

 第七十五節 皇后の試み


 夜宴が終わり、蘭雪は静かに紫蘭殿を後にした。

 月の光が石畳に淡く映え、冷えた風がそっと袖を揺らす。


(皇后様は、私をどう動かそうとしているのか——)


 蘭雪は皇后の意図を慎重に読み解こうとしていた。

 皇后は、彼女を持ち上げることで、後宮の才媛としての地位を確立させようとしている。


 しかし、それは同時に”枠に嵌める”ことを意味していた。


(私が皇后様の意に沿う才媛であれば、後宮の権力争いから一歩引いた立場になる……)


 それこそが、皇后の狙い。


 ——私は、皇后の操り人形にはならない。


 けれど、今はまだ、正面から抗う時ではない。

 慎重に、少しずつ、道を切り拓いていく必要がある。


 蘭雪はゆっくりと歩みを進める。


「蘭雪様」


 突然、背後から落ち着いた声がかかった。


 振り返ると、そこには沈逸の姿があった。

 月明かりを浴びた彼の顔は、どこか穏やかで、それでいて鋭い光を帯びている。


「今宵の宴、見事でしたな」


 沈逸は微かに笑みを浮かべながら近づく。


「皇后様に気に入られるとは、さすがです」


 蘭雪は、その言葉の裏に潜む意図を探るように、彼を見つめた。


「……それは、誉め言葉とは思えませんね」


 沈逸は肩をすくめる。


「さすが、鋭い。

 皇后様がそなたを持ち上げたのは、単なる称賛ではないでしょう」


 彼の瞳が深く蘭雪を映し出す。


「……皇后様が蘭雪様をどう動かそうとしているのか、分かりますか?」


 蘭雪は静かに息を吐いた。


「おそらく、私は”後宮の象徴”としての役割を与えられたのだと思います」


 沈逸の目が細まる。


「なるほど。“優雅で才気ある、しかし争いには加わらない后妃”……と?」


「ええ。つまり、私が動けないようにするための策」


 沈逸はしばし沈黙し、やがて唇の端を持ち上げた。


「……だが、そなたはそう簡単には従わない」


 蘭雪は、ふっと微笑んだ。


「もちろん」


 沈逸は面白そうに目を細める。


「では、これからどう動くおつもりで?」


 蘭雪はしばらく考え、ゆっくりと口を開いた。


「……今は、皇后様の意を汲むふりをするしかありません」


 沈逸は頷く。


「賢明な判断ですな。しかし、気をつけることです。皇后様は、ただの慈悲深い后ではありません」


「……ええ、承知しております」


 蘭雪は月を仰ぎ見た。


 ——皇后の試みが、どこへ向かうのか。


 そして、自分はどこまで抗えるのか。


 静かに、闘いの幕が上がる予感がした。




 翌朝、蘭雪が目を覚ますと、青蘭が慌ただしく部屋へ駆け込んできた。


「蘭雪様、大変です! 皇后様から使者が参りました!」


 蘭雪は静かに顔を上げる。


「……皇后様が?」


「ええ。立派な文箱が届けられました。どうやら贈り物のようですが……」


 青蘭の声には、わずかな警戒が滲んでいる。


 蘭雪は薄く微笑みながら、ゆっくりと身支度を整えた。


(皇后様が私に贈り物を? さて、どのような意図があるのか……)


 青蘭に案内され、庭へ出ると、そこには皇后付きの女官が控えていた。


「蘭雪様、皇后様よりこの品を賜ります。どうぞお受け取りくださいませ」


 女官が恭しく差し出したのは、紫檀の文箱。細やかな螺鈿細工が施され、高貴な品格を放っている。


 蘭雪は静かに箱を受け取り、蓋を開けた。


 中には、極上の硯と筆、そして繊細な織模様が施された和紙が収められていた。


「これは……」


「皇后様よりのお言葉をお伝えいたします」


 女官が丁寧に口上を述べる。


「『蘭雪様の才を大変喜ばしく思います。これからも精進され、宮中の風雅を共に高めていけるよう願っております』——と」


 蘭雪はその言葉を聞きながら、文箱の中の筆を手に取った。


(なるほど……これは”書け”ということ)


 昨夜の詩の対決で才を示した蘭雪に、皇后は「さらにその才を発揮せよ」と促している。


 それは一見、栄誉のように思えるが——実際には”動きを制限する鎖”に他ならない。


 詩や書を求められるということは、政治的な駆け引きから距離を置く立場を作られるということ。


(私を”後宮の才媛”として仕立て上げるおつもりね)


 蘭雪は微笑を湛えたまま、文箱を閉じた。


「皇后様のご厚意、ありがたく頂戴いたします」


 女官は満足げに頷き、優雅に辞去した。


 使者が去った後、青蘭が不安げに口を開く。


「蘭雪様……これは、良いことなのでしょうか?」


 蘭雪はゆっくりと息をつき、視線を遠くへ向けた。


「——まだ分からないわ。だたし、皇后様は私を”後宮の一部”として組み込みたいのでしょう」


 蘭雪はそっと文箱を撫でる。


「けれど、私は誰のものにもならない」


 青蘭は目を見開いた。


「では、どうなさるのですか?」


 蘭雪は静かに微笑む。


「皇后様のお心に応えるふりをして、私の道を進むだけよ」


 青蘭はその言葉に安堵したように頷く。


 しかし——蘭雪は知っていた。


 皇后の狙いがここで終わるはずがない。


 皇后が動いたということは、他の者たちも動き出すはず。


 蘭雪はそっと、胸の奥で覚悟を固めた。


 ——新たな策謀が、すでに始まっている。



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