第七十四節 蘭雪の詩
第七十四節 蘭雪の詩
静寂が、広がる。
宴の席に並ぶ妃嬪たちの視線が、一斉に蘭雪へと注がれた。
その中には、興味を持つ者もいれば、冷ややかに見つめる者もいる。
——この詩は、宮中での立場を決める。
蘭雪は、そっと目を伏せた。
(慎みを見せるか、それとも……)
詩とは、ただ美しく言葉を綴るものではない。
その裏に込める意味によって、味方を得ることも、敵を作ることもできる。
皇后は、あえて「妃嬪たちに捧げる詩」を求めた。
それは、宮中の女たちの間で蘭雪の存在をどう位置づけるかを試そうとしているのだ。
(ならば……私の立場を示す詩を詠みましょう)
蘭雪は、静かに扇を閉じた。
「では、詠ませていただきます」
そして、澄んだ声で朗々と詠う。
「露は花を潤し、風は枝を揺らす
朝霞の宮に、香は満ちゆく
春はやがて巡り来て
百花、共に咲かんことを——」
詠み終えた瞬間、場がしんと静まった。
妃嬪たちの顔に、それぞれ違う表情が浮かぶ。
「……百花、共に咲かんことを?」
誰かが、低くつぶやいた。
その意味を、蘭雪は知っている。
——この宮廷は、一輪の花だけが咲く場所ではない。
蘭雪はあえて「妃嬪たちの誰もが、それぞれに美しく咲く」ことを願う詩を詠んだのだ。
これが謙虚と受け取られれば、警戒を弱めることができる。
だが、ある者にとっては「余計な花は不要」という考えもあるだろう。
(この詩をどう受け取るか……それを決めるのは、宮中の者たち)
やがて、静寂を破るように——
「美しい詩ですね」
穏やかな声が響いた。
皇后・蕭淑妃が、微笑を浮かべている。
「蘭雪様の詩は、まことに雅やかでございます。まるで、春の宮中にふさわしい調べ」
彼女の言葉に、妃嬪たちの間でざわめきが起こる。
(……皇后様は、この詩を肯定するの?)
蘭雪は、皇后の意図を測ろうとした。
皇后は、あえて蘭雪の詩を持ち上げた。
つまり、蘭雪の立場を「優雅な才媛」として固定しようとしている。
(宮中における「気高き花」として……)
「陛下も、ご満足なさいましたでしょう?」
皇后は、ゆるりと皇帝を見やる。
慶成帝は、しばらく蘭雪を見つめていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……よい詩だ」
低く、けれど確かに響く言葉。
その一言で、蘭雪の詩才は宮廷に認められるものとなった。
——しかし。
(私の詩を評価することで、皇后様は”私の立場を定める”つもりなのね)
“皇帝に寵愛された才媛”ではなく、“宮中の優雅な花”として。
それはすなわち、権力闘争の激しい後宮で、慎ましくあれという意味でもある。
蘭雪は、そっと膝を折り、恭しく頭を垂れた。
「恐れ多きお言葉にございます」
だが、その心の奥では——新たな策を練り始めていた。
(皇后様の思惑通りにはいかない)
(私は……私の道を、切り開いてみせる)
(皇后様は、私を「後宮の優雅な花」として定めようとしている……)
蘭雪は静かに頭を垂れながら、その意図を見極めようとしていた。
後宮で才を認められることは、一見すると栄誉である。
しかし、それは同時に”定められた役割”を課せられることを意味する。
(私を持ち上げることで、私の行動を制限するつもりなのね)
「蘭雪様の詩、誠に見事でしたわ」
皇后の柔らかな声が響く。
「このような才媛がいることは、後宮の誇りです」
妃嬪たちの視線が、蘭雪へと注がれる。
その中には、感心する者もいれば、どこか冷ややかな目を向ける者もいた。
(——皇后様は、私を”敵ではなく、宮廷の象徴”として扱うつもり)
才を認められれば、逆に”権力争いの場”から遠ざけられる。
それが皇后の狙いなのだ。
「私の側で、学ぶ機会を増やして差し上げましょう」
皇后が、ゆったりと微笑む。
「これからも、宮中の格式を学び、妃嬪たちの模範となるように」
(——なるほど)
これは、一見すると皇后からの好意のように見える。
しかし実際は、蘭雪を皇后派として囲い込むための策略だった。
「……ありがたき幸せにございます」
蘭雪は、静かに頭を下げる。
(この申し出を断ることはできない)
ここで拒めば、皇后の意に背いたことになり、立場が危うくなる。
しかし、受け入れたとしても、皇后の支配下に置かれることになる。
——私に選択肢はないのか?
いや、ある。
(皇后様の思惑に従う”ふり”をしながら、私は私の道を進めばいい)
蘭雪は、穏やかに微笑んだ。
「恐れながら、そのお導きを賜ることができるならば、何よりの幸せにございます」
皇后の微笑みが深まる。
「よろしい。では、改めて日を設けて、あなたの才をさらに磨きましょう」
その言葉に、妃嬪たちの間でざわめきが広がる。
「まあ、皇后様直々に?」
「蘭雪様は、皇后様にとって特別なお方なのね……」
囁き交わされる言葉の中には、嫉妬と警戒が混ざっていた。
(……これで、私は「皇后派」だと見なされる)
それがどのように作用するかは、これから次第——。
魏尚が、静かに盃を傾けながら微笑む。
(皇后様の手際は見事だ……しかし、蘭雪殿も、ただ従うだけの者ではなさそうだな)
「——では、今宵の宴はここまでといたしましょう」
皇帝の声が響くと、妃嬪たちは次々と席を立ち、退出の準備を始めた。
蘭雪もまた、静かに立ち上がる。




