第七十二節 皇后の文の会
第七十二節 皇后の文の会
数日後、皇后主催の文の会が開かれることとなった。
会場は栖鳳殿。皇后の私的な宴が開かれる格式高い場所である。
庭には紅梅が咲き誇り、石畳の上を淡い花びらが舞っていた。
蘭雪が殿内へ足を踏み入れると、すでに多くの妃嬪が集まっていた。
艶やかな衣を纏い、それぞれが取り巻きと共に談笑している。
(やはり……権力争いの場となるのは避けられないわね)
そんな中、皇后・沈麗華がゆるりと微笑んだ。
「皆様、本日はお集まりいただき、嬉しく思います」
皇后の声が響くと、場の空気が引き締まる。
「本日は詩や書を嗜むことで、後宮の風雅を楽しみたいと思います」
そう言いながら、皇后は蘭雪の方へ目を向けた。
「蘭雪様も、ぜひ才を披露なさって」
場の視線が一斉に蘭雪に集まる。
(やはり……私を目立たせるつもりね)
蘭雪は微笑をたたえ、静かに筆をとった。
「それでは、一筆……」
彼女の筆先が白絹の紙を滑る。
流麗な筆跡で詠まれたのは——
「紅梅落つ 風に託して 君想ふ」
簡潔ながらも情緒に満ちた一句。
妃嬪たちの間から、静かなざわめきが広がる。
「風雅にして優美……」
「紅梅の儚さを詠むとは、見事な才ね」
皇后もまた、満足げに微笑んだ。
「素晴らしいわ。これほどの才女がいるとは、後宮の誇りですわね」
そう言いながら、皇后は盃を掲げる。
「今宵は、この詩を讃え、皆で杯を交わしましょう」
場が和やかに盛り上がる中、蘭雪は皇后の意図を感じ取っていた。
(持ち上げることで、私を”皇后派”と見なさせるつもりね)
だが、蘭雪もまた、この場を利用する。
(ならば、私は慎ましい才媛として立ち回るだけ……)
「恐れ多いことです。皆様の教えをいただきながら、日々学ばせていただきます」
慎み深く頭を下げることで、敵を増やさぬように振る舞う。
皇后の微笑が、わずかに深まった。
——文の会は、静かに新たな駆け引きの舞台となっていた。
栖鳳殿の文の会が終わった後、蘭雪は慎重に宮を辞した。
庭の紅梅は静かに散り、夜風がかすかに衣の裾を揺らす。
(皇后様は、私を巧みに利用しようとしている)
文の会で詩才を讃えられたことで、蘭雪は”皇后の寵愛を受ける才媛”と見なされることになった。
しかし、それは同時に”皇后の意に背けば潰される存在”となることを意味する。
「蘭雪様」
ふと背後から、誰かが声をかける。
振り向くと、そこにいたのは麗昭媛だった。
「先ほどの詩、とても美しいものでした」
麗昭媛は微笑みながら、蘭雪に近づく。
「……ですが、気をつけたほうがよろしいかと」
「何を、でしょうか?」
蘭雪が静かに問い返すと、麗昭媛は目を細めた。
「皇后様のご寵愛を受けるのは、光栄なこと」
「ですが、それは裏を返せば”皇后様の手の中にいる”ということ……」
彼女の声音には、かすかな警戒心がにじんでいた。
(麗昭媛もまた、皇后様の意図を警戒している……)
「お気遣い痛み入ります、麗昭媛様」
蘭雪は微笑みながら、優雅に一礼した。
「ですが、私はただ学びの機会を得られることに感謝しているだけ」
「……ええ、そうであればよいのですが」
麗昭媛は意味ありげに蘭雪を見つめると、そっと背を向けた。
その姿を見送りながら、蘭雪はそっと唇を引き結ぶ。
(私はまだ”皇后の影”にいる……)
(だが、このまま流されるつもりはないわ)
闇夜の風が、静かに蘭雪の髪を揺らした。
麗昭媛と別れた後、蘭雪は慎重に自らの殿へと戻った。
紫蘭殿の門をくぐると、侍女の春燕が迎えに出る。
「蘭雪様、お戻りになられましたか」
「ええ。何か変わったことは?」
「……実は、先ほど皇后様の女官がお見えになりました」
蘭雪はわずかに目を細めた。
「皇后様の女官?」
「はい。『後ほど、皇后様が紫蘭殿にお話にいらっしゃる』とのことでした」
(皇后様が……?)
蘭雪の心が静かに波立つ。
栖鳳殿での文の会の余韻も冷めやらぬうちに、直接紫蘭殿へ訪れるとは——。
これは単なる親愛の証ではない。
(……何か、仕掛けてくるつもりね)
「わかった。準備を整えておきましょう」
蘭雪は深く息を整え、慎重に衣を整える。
しばらくして——
紫蘭殿の門前に、皇后の一行が現れた。
先導するのは、皇后付きの女官楊嬋。
そして、淡い緋色の衣をまとい、優雅に歩みを進めるのは——皇后・沈麗華その人であった。
「蘭雪様、お招きいただきありがとう」
皇后は微笑みながら、紫蘭殿の中へと足を踏み入れる。
「滅相もございません。皇后様がお越しくださるとは、光栄の至りにございます」
蘭雪は慎重に一礼し、皇后を上座へと招く。
皇后は優雅に席につくと、ふと蘭雪を見つめた。
「先ほどの文の会——とても素晴らしい詩でしたわ」
「過分なお言葉、恐れ入ります」
「陛下もとても感心していらした」
皇后は杯を手に取り、静かに酒を口に含む。
「陛下があなたに興味をお持ちになるのは、当然のこと……」
その声音には、どこか意味ありげな響きがあった。
(……やはり)
蘭雪は微かに指先を引き締める。
皇后は蘭雪を持ち上げるように振る舞いながら、その実、皇帝の関心が蘭雪へ向いたことを探っている。
「それにしても——」
皇后はゆっくりと杯を置くと、微笑を深めた。
「あなたはまだ、どの妃嬪の派閥にも属していないのですね?」
蘭雪の胸が静かに波立つ。
(これは……試されている)
皇后は、蘭雪が誰の勢力に属するつもりなのかを見極めようとしている。
(もしここで”皇后様のもとで学びたい”などと軽率に答えれば——完全に皇后様の駒と見なされる)
蘭雪は慎重に言葉を選び、静かに微笑んだ。
「この身はまだ未熟。何者にも仕えるには足りませぬ。ただ、宮中に学ぶべきことが多いことは、痛感しております」
「まあ、謙虚ですこと」
皇后は、ゆっくりと扇を広げる。
「ですが——」
「宮中では、孤立することは何よりも危ういものですわ」
扇の奥から、皇后の鋭い視線が蘭雪を射抜いた。
「蘭雪様も、“どこに立つか”は慎重にお考えになられた方がよろしいでしょう」
(……来たわね)
それは警告だった。
——“私のもとに付くならば守ってあげる”
——“さもなくば、どうなるかは分からない”
皇后は、そう言外に告げているのだ。
蘭雪はそっと膝の上で手を握る。
(皇后様……私をどう扱うつもりなの?)
その答えを探るべく、蘭雪は慎重に微笑み、口を開いた。




