第七十一節 揺らぐ均衡
第七十一節 揺らぐ均衡
紫蘭殿の宴が終わり、宮中の静寂が戻りつつあった。だが、その余韻は未だ消え去らず、波紋のように広がりを見せていた。
蘭雪の詩才が披露され、皇帝の関心を引いたことは、後宮の均衡に微妙な変化をもたらす。
それを最も敏感に察したのは、宦官長・魏尚だった。
魏尚は静かに宮殿の回廊を歩きながら、袖を揺らめかせる。その姿は影のように静かでありながら、その内には鋭い思索が渦巻いていた。
(蘭雪……やはり只者ではないな)
彼は蘭雪の即興の詩に込められた意味を、誰よりも深く読み取っていた。
「願わくば、時は穏やかに
君のもとに、花香ることを——」
一見すると、皇帝への忠誠と敬愛を示した美しい詩である。だが、魏尚はその奥に潜むもう一つの意味を見逃さなかった。
——「時は穏やかに」。
それは「争いを望まない」という意思表明とも取れる。
そして「花香ることを」とは、「宮中の平穏」を願う言葉にも思える。
この詩がただの賛美で終わらないのは、その選ばれた言葉が絶妙だからだ。
蘭雪は、皇帝への忠誠を示しながらも、「己は権勢を争うつもりはない」と暗に伝えていた。
しかし——それを信じる者が、果たしてどれほどいるか。
魏尚はふっと笑みを漏らした。
(策を巡らせる者ほど、相手の言葉の裏を読むもの……この後宮で、穏やかでいられると本気で思うのか?)
蘭雪が望むと望まざるとにかかわらず、彼女はすでに後宮の権力争いの中心に引きずり込まれている。
そして、魏尚はそれをただ傍観するつもりはなかった。
◆
一方、蘭雪は自室に戻ると、静かに針仕事をするふりをしながら、思考を巡らせていた。
(魏尚様……あなたの狙いは何なの?)
今回の詩の対決は、魏尚が仕組んだものだった。
だが、その意図はまだ完全には見えない。
(私の才を試した? それとも、皇后様と陛下の反応を見るため?)
皇后は蘭雪を公然と持ち上げ、まるで「皇后派」のように見せかけた。
そして、皇帝は蘭雪の才を評価し、「文人との交流」を許可した。
それはつまり——
(私は、後宮の権力闘争の中で、利用価値のある存在と見なされたということね)
「蘭雪様、お部屋が冷えております。湯をお持ちしましょうか?」
侍女の春燕が気遣わしげに声をかける。蘭雪は微笑み、そっと針を置いた。
「ありがとう、春燕。でも、もう少しこのままで……」
手のひらに残る微かな震えを、蘭雪は隠しながら握りしめた。
◆
その夜、皇后の寝宮では、女官たちが忙しなく動いていた。
蕭淑妃は鏡台の前に座りながら、薄く微笑んだまま、魏尚に問いかけた。
「……魏尚。あなたは、あの娘をどう思う?」
魏尚は静かに膝をつき、恭しく答えた。
「蘭雪様は聡明でございます。そして、自らの立場を守るすべも心得ておいでです」
「ふふ……あの場で、陛下に“学びの場”を求めるとはね」
皇后は櫛を手に取り、ゆっくりと髪を梳いた。
「自ら寵愛を求めず、あくまで慎ましく振る舞う。けれど、それがまた、陛下の興味を引くということに、彼女は気づいているのかしら?」
魏尚は微かに唇を歪めた。
(気づいていないはずがない……いや、気づいた上で、それを利用しているのだ)
皇后は鏡越しに魏尚を見つめる。
「魏尚。私たちは、あの娘をどうすべきかしら?」
魏尚は少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「焦ることはありません。今は、彼女がどのように動くか、見極めるべきかと」
「……そうね」
皇后は、ふっと笑った。
「彼女は“持ち上げられる”ことを恐れている。ならば、もっと高く、高く——押し上げてあげましょう」
魏尚はその言葉に、わずかに目を細めた。
(皇后様……蘭雪様を、どこまで試すおつもりか)
静かな宮殿の奥で、また一つ、新たな策謀の灯がともる。
そして、蘭雪はまだ、その全貌を知らない——。
宮中に新たな風が吹き始めていた。
紫蘭殿の宴での蘭雪の詩は、多くの者の記憶に深く刻まれた。
「後宮に、あのような才媛がいたとは……」
「詩だけではない。陛下の前での振る舞いも見事だった」
宦官や女官たちの噂話が、後宮の至るところで交わされる。
だが、その賞賛の声の裏で、静かに不穏な影も生まれつつあった。
◆
翌朝、蘭雪のもとに一通の書状が届けられた。
それは、皇后からの招きだった。
「——蘭雪様、宮中の才媛として、私のもとで文の会を開くことを考えております。貴女もぜひ、参加なさってくださいませ。」
蘭雪は書状を指先でなぞりながら、目を細めた。
(やはり、皇后様は動いたわね)
皇后が自ら主催する文の会。そこに招かれるということは、後宮において「皇后の庇護下にある」と見なされることを意味する。
そして、それはすなわち——
(私を皇后派と印象付け、他の勢力と対立させるつもり……)
蘭雪は静かに筆をとり、返事をしたためた。
「有難きお言葉にございます。微力ながら、お手伝いさせていただきたく存じます」
拒むという選択肢はない。
だが、流されるままではいけない。
蘭雪は、己が進む道を見極めねばならなかった。
◆
一方、その頃——。
「皇后様が蘭雪を側近のように扱うとは……」
麗昭媛は不機嫌そうに茶を啜りながら、側仕えの女官に愚痴を零していた。
「まるで、あの女が後宮の中心にいるかのようじゃないの!」
「麗昭媛様、あまりお声を荒げられては……」
「ふん!」
麗昭媛は盃を乱暴に置くと、忌々しげに天を仰いだ。
(あの蘭雪という女……私は負けるつもりはないわ)
心の奥底に燃え上がる嫉妬の炎。
それが、やがて新たな陰謀の火種となることを、まだ誰も知らない——。




