第七十節 魏尚の策略
第七十節 魏尚の策略
紫蘭殿の夜宴。
灯火が揺らめき、香炉の煙が静かに立ち上る。宮中の妃嬪や高官たちが華やかに席を並べ、皇帝・慶成帝は玉座から穏やかに酒盃を傾けていた。
その席の中央に立つのは、宦官長・魏尚。
白絹の袖を優雅に翻しながら、皇帝に向かい一礼する。
「陛下、本日の宴には、多くの才媛が集っております。もしや、御前で詩の競い合いなど催されてはいかがでしょう?」
魏尚の声音はあくまで柔らかく、微笑をたたえていた。だが、その細めた目の奥には、鋭い観察眼が光る。
「詩の競い合い?」
慶成帝は興味深そうに盃を置き、魏尚を見やった。
「ふむ、それもよい。近頃、宮中で詩才を持つ者がいると聞いたが……」
魏尚は軽く目を伏せ、皇后の方を仰ぐ。
「皇后様も、このような雅な催しをご覧になれば、お心が和らぐのではございませんか?」
皇后・蕭淑妃は、わずかに微笑を浮かべた。
「それは素晴らしいことですわね。宮中の妃嬪たちの教養を深める良い機会となるでしょう」
その目は、まっすぐに蘭雪を射抜いていた。
「蘭雪様も、詩がお得意だとか」
魏尚の言葉に、蘭雪は静かに目を伏せる。
(なるほど。これは、皇后様と魏尚が仕組んだ試練というわけね)
宴の中で突如として開かれる詩の対決——。
皇帝の前で恥をかけば、一瞬にして寵愛の芽は摘まれる。
それだけでなく、皇后にとっても都合のよい駒として扱われかねない。
「蘭雪様、ぜひ一篇詠んでいただけませんか?」
魏尚の声は、まるで柔らかな絹のように絡みつく。
蘭雪は深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
「……恐れながら、この身はまだ未熟ゆえ、皆様の前で詩を詠むには及びません」
「まあ、それは謙虚なこと」
皇后が微笑む。
「ですが、陛下もお聞きになりたいとお思いではなくて?」
皇后が促すように視線を向けると、慶成帝は面白がるように笑った。
「ふむ、ならば蘭雪、お前の詩才を見せてみよ」
——逃げ道は、断たれた。
蘭雪は静かに膝を正し、周囲の視線を感じながらゆっくりと口を開く。
「それでは……陛下に捧げる一篇を」
そして、心の中で素早く詩を組み立てる。
この場で即興で詠む以上、ただ美しい言葉を並べるだけでは不十分だ。
詩には、意味が込められねばならない——。
蘭雪は、優雅に袖を翻し、朗々と詠い上げた。
「露華、玉座を濡らし
** 金波、宮殿を照らす**
** 風は微かに歌を運び**
** 月は静かに影を映す**
** 願わくば、時は穏やかに**
** 君のもとに、花香ることを——」**
詠み終えた瞬間、静寂が落ちる。
一瞬の間を置き、宮中の妃嬪たちが驚きに満ちた表情を浮かべる。
「……なんと美しい詩でしょう」
「まるで、夜の宮廷の情景をそのまま写し取ったよう……」
さざめきが広がる中、皇帝は目を細めたまま、蘭雪を見つめていた。
「見事だ」
その声は低く、しかし確かに響く。
「詩の才においても、なかなかのものだな」
「陛下がそうおっしゃるのなら、蘭雪様の才は疑う余地もございませんね」
皇后は、どこまでも優雅に微笑んだ。
「後宮に、このような才媛がいることを、誇らしく思いますわ」
(皇后様……)
蘭雪はその言葉の裏にある意図を察した。
——皇后は、蘭雪を潰すのではなく、「持ち上げる」ことで利用しようとしている。
才覚を認めることで、彼女が皇后の配下であるかのように印象付けるのだ。
皇帝の関心が蘭雪に向いたことを、皇后は利用しようとしているのだろう。
(私を“皇后派”に見せかけるつもりなのね)
蘭雪はそっと唇を引き結んだ。
「今宵の宴にふさわしい詩を詠んでくれた。褒美を取らせよう」
慶成帝が微笑みながら、蘭雪を見やる。
「望むものがあれば言え」
(望むもの——?)
蘭雪は瞬時に思考を巡らせた。
この場で何を求めるかで、自身の立場が決まる。
彼女は静かに視線を上げ、皇帝を見つめた。
「——もし許されるなら、私はただ、陛下の御前で学ぶ機会をいただければ幸いにございます」
宮中において、権勢を求めれば警戒される。
だが、「学びを求める」と言えば、慎ましい才媛の印象を与えることができる。
「ふむ、良い心がけだ」
慶成帝は満足げに頷いた。
「では、時折、宮中の文人を集めた席を設けよう。そなたも参加するがよい」
「ありがたき幸せにございます」
蘭雪は恭しく頭を下げた。
そのやり取りを見つめる魏尚の唇が、わずかに持ち上がる。
(なかなかのものだな……)
皇帝の寵愛を引きながら、慎重に動く才覚——。
蘭雪の存在は、ますます後宮の渦を大きくすることになるだろう。
魏尚の視線が鋭く光る中、宴の余韻が、静かに広がっていった。
——蘭雪は、皇帝の関心を得た。
だが、それは新たな闘いの幕開けでもあった。




