第六十九節 魏尚の策
第六十九節 魏尚の策
慶成帝が去った後も、御花園には微かな余韻が残っていた。
魏尚は蘭雪をじっと見つめ、やがて静かに微笑んだ。
「蘭雪様、陛下の御心に響く詩を詠まれるとは、見事でございます」
蘭雪は魏尚の言葉に警戒しつつも、穏やかに微笑んだ。
「魏尚様にまでお褒めいただけるとは、光栄でございます」
魏尚は扇を軽くたたみながら、低く笑う。
「ですが、後宮では光を放つ者は、それだけ影を作るもの。蘭雪様もお気をつけくださいませ」
「心得ております」
蘭雪の答えは、少しの迷いもなかった。
魏尚は目を細め、ふっと小さく笑う。
「なるほど。では、どのように影を払いましょうか?」
「魏尚様が、私のために策を授けてくださると?」
蘭雪が問い返すと、魏尚は意味ありげに首を傾げた。
「私が動くかどうかは、蘭雪様次第です」
「……私次第?」
「ええ。陛下のお心を得ることは、単なる始まりにすぎません。その後、どのように進むか……蘭雪様はどのようにお考えです?」
蘭雪は慎重に言葉を選びながら答えた。
「私は……流されるだけの存在にはなりたくありません」
魏尚は満足そうに頷く。
「ならば、一つ提案をいたしましょう。蘭雪様の才を試す機会を、私が設けるとしたら……受けていただけますか?」
蘭雪は魏尚の言葉の裏を読み取ろうとした。
彼は単なる皇帝の忠臣ではなく、後宮の権力の中枢を担う宦官長。
その魏尚が試すというのは——。
「それは……どのような試練でしょう?」
魏尚はにこりと笑い、扇を開く。
「そうですね……例えば、今宵の宴において、貴女がどこまで立ち回れるか。貴女に興味を抱いているのは陛下だけではございません」
蘭雪の心に、わずかな緊張が走った。
(魏尚は、私をどこへ導こうとしているのか——)
だが、避けては通れぬ道。
蘭雪は静かに微笑み、魏尚に向かって深く一礼した。
「そのお試し、喜んで受けさせていただきます」
魏尚は満足げに笑い、ゆっくりと身を翻す。
「では、今宵を楽しみにしておりますよ」
そう告げると、彼は軽やかに立ち去った。
蘭雪は深く息をつき、月を仰ぐ。
魏尚の策に乗ることで、彼の思惑に絡め取られる可能性はある。
しかし——。
(これは、私にとっても好機)
皇帝の寵愛を得るだけでなく、後宮での立場を築くために。
蘭雪はゆっくりと歩き出した。
今宵の宴。
それが、新たな局面の始まりとなることを、彼女は理解していた。
夜が訪れ、後宮の庭園には華やかな灯がともった。
宮中の高位妃嬪や重臣たちが集まり、宴の宴が催されようとしていた。
蘭雪は身支度を整えながら、魏尚の言葉を思い返していた。
(今宵の宴で、私がどこまで立ち回れるか——)
魏尚は、単に皇帝の寵愛を試すだけでなく、彼女が後宮においてどのような立場を築けるかを見極めようとしているのだろう。
「蘭雪様、お召し物の準備が整いました」
侍女の春燕が、繊細な刺繍の施された淡い藍色の衣を差し出した。
派手すぎず、しかし品格を持たせた装い。
蘭雪は静かに頷き、衣をまとった。
「参りましょう」
春燕を伴い、宴の席へと向かう。
◆◆◆
御花園に設けられた宴の席は、絢爛たる美で満ちていた。
灯籠の光が揺らめき、花々の香りが夜気に溶ける。
中央には慶成帝が座し、その隣には皇后が控えていた。
「これは、思った以上に賑やかですね」
蘭雪は周囲を見回しながら、微笑を湛えた。
「蘭雪様、どうぞこちらへ」
宦官が案内した席は、決して低い位置ではなかった。
——皇帝の視線の届く場所。
(魏尚の計らいか、それとも……)
蘭雪が席につくと、視線を感じた。
皇后は微笑を保ちつつも、その瞳には冷ややかな警戒が滲んでいる。
そして、麗昭媛。
彼女は名門の出で、皇后に匹敵する後ろ盾を持つ妃嬪。
蘭雪の存在を好ましく思っているとは言い難い。
(なるほど……ここが戦場というわけですね)
蘭雪は静かに酒を口に含んだ。
——そして、宴が始まる。




