第六十八節 皇帝の詩問
第六十八節 皇帝の詩問
魏尚が去った後も、蘭雪は文を見つめながら思考を巡らせていた。
「花は風に揺れ、影は水に映る」
この詩が示すのは、後宮における「表と裏の関係」。魏尚は試すようにこの詩を持ちかけてきたが、真の意図はまだ分からない。
(私はまだ、後宮の奥深い流れをすべて理解しているわけではない……)
その時、女官の一人が静かに近づき、蘭雪に囁いた。
「蘭雪様、陛下がお呼びです」
蘭雪は一瞬驚いたが、すぐに心を落ち着けた。
(陛下が……私を?)
これは偶然ではない。魏尚の試みの直後に皇帝からの召しがあるということは、何かしらの関連があるはずだった。
蘭雪は静かに立ち上がり、衣の乱れを直した。
「参りましょう」
女官の先導のもと、蘭雪は御花園へと向かった。
◇◇◇
夜の御花園は、月明かりに照らされ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
中央の東屋には、すでに慶成帝が座しており、その傍らには文を持った宦官が控えていた。
「蘭雪、よく来たな」
皇帝は微笑を浮かべながら、蘭雪を手招きした。
蘭雪は膝をつき、静かに拱手する。
「お召しいただき、光栄に存じます」
慶成帝はそんな蘭雪を興味深そうに見つめた。
「そなたの詩を詠む才をこの目で確かめたい。どれほどのものなのかな」
蘭雪は驚きを隠しながらも、静かに答える。
「恐れながら、学びの一環として少々たしなんだだけです。たいしたものではございません」
「ふむ、それならば——」
皇帝は傍らの宦官に目配せし、宦官は一枚の文を差し出した。
「私と詩の対決をしてみる気はあるか?」
一瞬、周囲の空気が張り詰めた。
皇帝自ら詩の対決を申し込む——これは、単なる戯れではない。
蘭雪は心を決め、そっと微笑んだ。
「陛下のお手並みを拝見できるなど、これほど光栄なことはございません」
慶成帝は満足そうに笑い、筆を手に取った。
「では、題を決めよう」
彼は少し考えた後、告げた。
「“影”を題とする」
蘭雪の心がかすかに揺れた。
(影……? まるで、魏尚の詩と繋がっているような題目……)
これは偶然か、それとも……?
蘭雪は深く息を吸い、静かに筆を取った。
「僭越ながら、お受けいたします」
——皇帝との詩の対決が、静かに幕を開けた。
御花園の東屋に張り詰める緊張。
皇帝と蘭雪の詩の対決を前に、宦官や侍女たちが静かに息を潜めていた。
慶成帝は筆を手に取り、すらすらと紙に文を綴る。
筆先が走るたび、彼の思考が紡ぎ出されていく。
やがて筆を置くと、微笑みながら蘭雪を見つめた。
「そなたの番だ」
蘭雪は深く息を吸い、墨を含ませた筆をそっと紙に落とす。
(“影”——この言葉にどんな意味を込めるべきか)
ただ単に月の影を詠むのでは、皇帝の求める才には届かない。
後宮という場所を生き抜くためには、詩の中に知恵と覚悟を織り込まねばならない。
筆を滑らせるうちに、言葉が生まれていく。
灯火影沈む夜半の静けさに
揺らぐは夢か、あるいは幻か
静寂の中で、帝の詩が披露される。
火影の揺らぎを“夢”と“幻”に例え、掴みどころのないものを詠っている。
(……これは、まるで帝自身の心の内のよう)
蘭雪は改めて筆を取り、流れるように詩を書き上げた。
月影は水に揺れども形を変えず
風に舞おうと、なおそこに在り
侍女たちが小さく息を呑んだ。
蘭雪の詩は、“影”がどんなに揺らめこうとも本質を失わないことを詠っていた。
(どれほど風が吹こうとも、私は自分を見失わない——)
それは、後宮での生き方そのものを暗示する詩でもあった。
慶成帝は詩を見つめたまま、しばし沈黙した。
やがて、口元に愉快そうな微笑を浮かべる。
「なるほど……そなたの詩は、芯が強いな」
蘭雪は静かに拱手し、目を伏せた。
「恐れながら、陛下に並ぶにはまだまだ未熟にございます」
皇帝は笑い、ゆったりと頷く。
「よい、なかなか面白いものを見せてもらった」
そう言うと、傍らの宦官に筆を戻し、蘭雪を改めて見つめた。
「そなたの詩才、ますます興が湧いたぞ」
その声には、確かな興味が含まれていた。
蘭雪は、ついに皇帝の目に留まったのだ。
だが、それは単なる寵愛ではない——
彼女の知恵と才覚に、帝は何を見出したのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
風が静かに御花園の東屋を撫で、蘭雪の衣の裾を揺らした。
慶成帝は詩の書かれた紙を手に取り、改めて眺める。
「そなたの詩は、ただ美しいだけではない。言葉の奥に、強い意志を感じるな」
皇帝の言葉に、侍女たちは小さく息を呑んだ。
単なる美辞麗句ではなく、蘭雪の内に秘めた想いを感じ取ったのだ。
蘭雪は静かに微笑み、慎み深く答える。
「拙き詩ながら、陛下の目に留めていただけたこと、光栄に存じます」
彼女は決して驕らず、かといって過度に卑下もしない。
その立ち居振る舞いは、他の妃嬪たちとは明らかに異なっていた。
「面白い。そなたは、どこか余人とは異なるな」
慶成帝は興味深そうに蘭雪を見つめた。
「そなたのような才を持つ者が、なぜこれまで目立たずにいた?」
その二度目の問いに、蘭雪は慎重に言葉を選んだ。
「私のような者は、あまり前に出ぬ方がよろしいかと存じておりました」
皇帝は目を細め、しばし沈黙した後、微かに笑った。
「確かに、後宮では才もまた刃となる。しかし、隠し続けるには惜しいな」
そう言いながら、彼は紙を折りたたみ、傍らの宦官・魏尚に手渡した。
「魏尚、これを文房に納めておけ」
魏尚は一礼し、蘭雪の詩を丁重に受け取る。
「はっ、承知いたしました」
蘭雪は心の奥で警戒を強めた。
——皇帝が、詩をわざわざ保存するとは。
(これは、私にさらに関心を持ったということ)
寵愛を得ることは、すなわち後宮の権力争いの渦に巻き込まれること。
彼女の詩が、どのような波紋を呼ぶのか——まだ分からない。
だが、蘭雪は微笑を崩さず、静かに拱手する。
「陛下の御心に少しでも響いたならば、これ以上の幸せはございません」
慶成帝は満足げに頷き、ゆっくりと席を立った。
「今宵はよい余興であった。また、そなたの詩を聞いてみたくなるかもしれぬな」
それだけ告げると、皇帝は悠然と歩み去る。
蘭雪は頭を下げたまま、皇帝の背を見送った。
魏尚が蘭雪に視線を向け、意味ありげに微笑む。
「蘭雪様、陛下はあなた様に、ますます御興味をお持ちのようですね」
蘭雪は微かに笑い、慎重に答えた。
「魏尚様、興味がどのように転ぶのか、私には分かりません。ただ……」
彼女はそっと、月を仰ぐ。
「私は、流されるままではなく、己の道を選びたいと思っております」
魏尚はその言葉を聞くと、ふっと笑った。
「ほう……では、そのお覚悟、拝見させていただきましょう」
蘭雪と魏尚。
互いに探り合うように視線を交わしながら、風は静かに吹き抜けていった。




