第六十七節 宵闇の使者
第六十七節 宵闇の使者
蘭雪が読書に耽っていた時、外の静寂を破るように、女官の声が響いた。
「蘭雪様、お取次ぎを——宦官長・魏尚様のお使いです」
魏尚の使い?
蘭雪は眉をひそめ、本を閉じた。
魏尚——宦官の頂点に立ち、皇帝の側近として絶大な権勢を振るう人物。その彼が、なぜ自分に?
「お通しなさい」
女官が戸を開けると、現れたのは若い宦官だった。
「蘭雪様、魏尚様よりの伝言を預かっております」
蘭雪は静かに頷く。
宦官は一歩進み、慎重に口を開いた。
「魏尚様はこう仰せです——“後宮の道理、心得ておられますか?”」
蘭雪は目を細めた。
(……試されている?)
「魏尚様にお伝えください。“心得ております”と」
宦官は一瞬だけ蘭雪を見つめた後、深く一礼し、静かに去っていった。
——その言葉の真意を、蘭雪はまだ知らない。
だが、その夜。
彼女は、この後宮における“道理”の意味を知ることになる——。
夜が更け、燭台の揺れる光が蘭雪の部屋を淡く照らしていた。
魏尚からの伝言の意味を考えていた蘭雪のもとへ、再び女官が現れる。
「蘭雪様、魏尚様が直接、お目通りを望んでおります」
蘭雪は驚きを隠しながらも、すぐに姿勢を正した。
「お通しなさい」
やがて、魏尚が静かに部屋へ入る。細身の体に品のある宦官の衣を纏い、その顔にはいつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。しかし、その目は決して笑ってはいなかった。
「蘭雪様」
蘭雪は慎重に膝を折り、恭しく一礼した。
「宦官長・魏尚様にお目通り叶い、光栄に存じます」
魏尚は扇を軽く開きながら微笑む。
「光栄……ですか。ふふ、では一つ、お尋ねしましょう」
彼は目を細めた。
「後宮において、最も大切なものとは何でしょう?」
蘭雪は即答しなかった。慎重に言葉を選びながら、静かに口を開く。
「……陛下の寵愛かと」
魏尚はゆっくりと扇を閉じた。
「なるほど。しかし、それだけでは生き残れませんな」
蘭雪は内心で息をのむ。
「寵愛は水の如し。一時は満ちても、次には引く。では、引かれた時、あなたはどうなさる?」
魏尚の視線が鋭くなる。
「寵愛以外に、あなたには何がございます?」
蘭雪は魏尚の言葉の意図を探るように、その顔をじっと見つめた。
(これは——私の価値を試している?)
沈黙の後、蘭雪は微笑み、静かに答えた。
「知恵と……信頼を積むことかと」
魏尚は目を細め、ゆっくりと頷いた。
「ふむ。では、その知恵と信頼を、私にも示していただきましょうか」
彼は懐から一通の文を取り出し、蘭雪の前に置いた。
「これは?」
「この文の意味を読み解き、適切な返答をなさいませ。それができれば、あなたを“後宮の者”として認めましょう」
蘭雪は目を細めながら、魏尚が差し出した文をじっくりと読み込んだ。
そこには、後宮の実力者たちの名が並んでいた。
「皇后、麗昭媛、嘉儀容、沈貴人……」
さらに、その下には暗号のような詩の一節が記されている。
——「花は風に揺れ、影は水に映る」
簡素な一文。しかし、この詩には必ず何かの意図が込められているはずだ。
蘭雪は文を手に取り、慎重に魏尚を見つめた。
「この詩の意味を解け、ということですね」
魏尚は扇を軽く揺らしながら微笑んだ。
「その通りです。さあ、どのように解釈なさる?」
蘭雪は考える。詩の前半「花は風に揺れ」は、不安定な状況、あるいは変化を意味している。
そして後半「影は水に映る」は、実体のないものが、あたかも実在するかのように見えることを示唆している。
(つまり……これは“誰かが動かされている”という暗示では?)
蘭雪は魏尚の意図を慎重に探る。
(後宮の誰かが、見えない力によって動かされている?それとも、虚実を使い分ける者がいる?)
沈黙の中、魏尚の視線が蘭雪を試すように注がれる。
やがて、蘭雪は静かに口を開いた。
「この詩が意味するのは——後宮のある人物が、他の誰かの意図によって動かされていることではないでしょうか?」
魏尚の笑みがわずかに深まる。
「ふむ……なるほど」
「“花”は、表向きの権力を持つ者。“風”は、それを操る隠れた力。そして“影”は、真の実力を持たぬ者が、あたかも権力者であるかのように見える状態……」
蘭雪は視線を落とし、文に書かれた名をもう一度見つめる。
「この詩が意味する“花”とは、表向きの権力者……つまり皇后や麗昭媛のような存在を指しているのでは?」
魏尚は扇を閉じ、興味深そうに蘭雪を見つめた。
「では、“風”は?」
蘭雪は迷わず答えた。
「後宮の背後で動く力……例えば、太后や宦官、もしくは貴族勢力。彼らの影響によって、表向きの権力者たちが揺れ動いているのでは?」
魏尚は沈黙する。蘭雪はその間を逃さず、さらに推測を進めた。
「そして、“影”とは——表では実権を持っていないように見えるが、実は何らかの影響を及ぼしている人物……つまり」
蘭雪の視線が魏尚を捉えた。
「宦官長である、あなた……魏尚様では?」
魏尚の目がわずかに細まる。しかし、すぐに含み笑いを漏らした。
「……ふふ、面白いことを言うのですね、蘭雪様」
彼は立ち上がり、蘭雪を見下ろした。
「よろしい。どうやら、あなたは本当に“言葉の奥”を読むことができるようだ」
魏尚は静かに扉へと向かう。
「この詩の意味を理解できたあなたならば……いずれ、後宮で生き残る道を見つけられるでしょう」
「ですが」
扉の前で足を止め、振り返る。
「これはまだ“試し”の一つに過ぎませんよ、蘭雪様」
その言葉を残し、魏尚は静かに去っていった。
蘭雪は文を握りしめ、深く息をつく。
(……後宮の表と裏。そのすべてを理解しなければ、私は生き残れない)
静かな決意が、蘭雪の心の奥に宿っていった。




