第四節 寵姫の影
第四節 寵姫の影
皇后から下された指示——「玉玲瓏」を賜った妃の真偽を探ること。
蘭雪は景仁宮を辞し、静かに考えを巡らせながら回廊を歩いていた。
(この後宮で、陛下から特別な寵愛を受ける妃——)
皇帝の寵姫は誰か。
それを知るのは難しくない。
最近、後宮で最も話題となっているのは——「沈貴人」。
蘭雪の脳裏に、艷やかな黒髪と涼やかな美貌を持つ女の姿が浮かんだ。
沈貴人——沈氏。
もとは才人(低位の妃)だったが、数ヶ月前に皇帝の寵愛を受け、一気に貴人へ昇進した。
彼女が玉玲瓏を賜ったと噂されている。
(沈貴人……)
蘭雪は慎重に歩を進めながら、考える。
「真偽を確かめる」ためには、沈貴人の宮へ足を運ぶしかない。
しかし、あからさまに訪ねれば、警戒されるだろう。
(どう動くべきか……)
思案していると、不意に声がかかった。
「蘭雪、何を考えている?」
その声音に、蘭雪は足を止めた。
(この声……)
振り向くと、月白の衣を纏った長身の男が立っていた。
「沈逸……」
沈逸——後宮の内侍監に仕える若き宦官。
しかし、その立ち居振る舞いにはどこかただの宦官ではない雰囲気があった。
「浮かない顔だな」
沈逸は微笑しながら、蘭雪を見つめる。
「俺でよければ、話を聞こうか?」
蘭雪は沈逸の表情をじっと見た。
(……彼なら)
彼は、蘭雪が後宮に入って以来、何度か助け舟を出してくれた存在。
軽薄なように見えて、その実、頭の切れる人物。
(……相談してみてもいいかもしれない)
蘭雪は静かに息を整え、沈逸の目を見据えた。
「沈貴人の宮に、どうすれば自然に近づけるか……それを考えていたの」
沈逸の眉がわずかに上がる。
「ふむ……沈貴人、ね」
彼は口元に指を当て、少しの間考え込む。
やがて、静かに微笑んだ。
「なら、手はあるかもしれないな」
「……どういうこと?」
沈逸はふっと笑うと、蘭雪に一歩近づいた。
「少し……俺に任せてみるか?」
沈逸の言葉に、蘭雪は慎重に目を細めた。
(沈逸の策……?)
彼は軽薄そうに見えて、後宮の裏事情に精通している。
これまで何度か助けられたこともあるが、全面的に信用するのは危険だ。
(けれど……今は彼の知恵を借りるのが得策かもしれない)
蘭雪は小さく頷いた。
「……どうするつもり?」
沈逸は微笑を深めると、蘭雪の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。
「沈貴人の宮では、月に一度、特別な香を焚く日があるそうだ」
「香……?」
「そう。沈貴人が特に好む香でな、『翠微香』 という」
蘭雪は眉をひそめた。
翠微香——。
名の知れた高級な香だが、後宮では滅多に使われない。
(確か……翠微香には、微かに催眠効果があると聞いたことがある)
沈逸は意味ありげに微笑んだ。
「その香を焚く日は、沈貴人の侍女が外部の宦官から香料を受け取るそうだ」
「……つまり?」
「そこを狙えば、お前が沈貴人の宮へ入る口実ができるってことさ」
沈逸は懐から、細工の施された小さな包みを取り出し、蘭雪に手渡した。
「これは?」
「本物の翠微香とよく似た香料だ。ただし、少し仕掛けをしてある」
蘭雪は慎重に包みを開くと、ほんのわずかに甘い香りが立ちのぼる。
しかし、その奥に、ほのかに感じる違和感——。
(これは……何か混ぜられている?)
蘭雪が疑問の視線を向けると、沈逸は悪戯っぽく笑った。
「大したものじゃないさ。ただの眠りを深くする成分が少し含まれているだけ」
「……なるほど」
「沈貴人の宮の侍女に、この香を渡せば、その夜は皆、よく眠れる というわけだ」
蘭雪はゆっくりと包みを閉じた。
(つまり、沈貴人の宮へ潜入する時間が稼げる……)
「どうする?」沈逸が問いかける。
蘭雪は、慎重に考えた末、小さく微笑んだ。
「——乗るわ」
***
翌日、夕刻。
蘭雪は宦官の衣を借り、沈貴人の宮の侍女に近づいた。
「翠微香をお届けに参りました」
侍女は疑いもせず、香の包みを受け取る。
(……成功した)
あとは、夜を待つだけ。
沈貴人の宮で、何が見つかるのか——。
蘭雪は静かに夜の帳が下りるのを待った。




