第六十六節 新たな招き
第六十六節 新たな招き
蘭雪が自室で帳簿の整理をしていると、一人の内監が静かに近づいてきた。
「蘭雪様、伝令にございます」
「伝令?」
内監は深く礼をし、低い声で告げた。
「御前よりお召しがございます」
蘭雪は一瞬、手を止めた。
——慶成帝の召し?
それは異例のことだった。今回は明確に彼女を指名している。
「……心得ました」
蘭雪は筆を置き、深呼吸をすると、用意された装束に袖を通した。決して華美ではないが、品のある薄紅色の衣。侍女の手を借りて髪を整え、玉の簪を一本だけ挿す。
——私は、後宮で生きる者。慎重に、されど臆せず進まねばならない。
そう心に言い聞かせ、静かに歩みを進めた。
紫宸殿に足を踏み入れると、そこには慶成帝の姿があった。
帝は卓の前に座り、手元の書をめくりながら、蘭雪を見やった。
「来たか」
「蘭雪、謹んでお目にかかります」
蘭雪が深く礼をすると、慶成帝は軽く笑った。
「堅苦しくするな。お前の詩才、確かに見事であった。あれほどの即興を詠める者はそう多くはない」
「過分なお言葉にございます」
蘭雪は慎ましやかに答えるが、その目は真っ直ぐに帝を見ていた。
「私が召した理由はな、もう一度お前の才を試したいからだ」
慶成帝は扇で軽く卓を叩きながら続けた。
「今宵、もう一度詩を詠め。即興で、私のために」
蘭雪の心が一瞬だけ波立つ。
蘭雪はゆっくりと息を吸い、そして静かに口を開いた。
「……陛下、題を賜りますか?」
慶成帝は満足そうに微笑み、ゆっくりと告げた。
「『孤月照る夜』——この題で詠んでみよ」
蘭雪は瞬時に思考を巡らせた。
(孤月——つまり、一人静かに輝く月。夜の闇を照らすもの……陛下は、何を求めているのかしら)
紫宸殿の静寂の中、蘭雪はそっと目を閉じ、そして——
澄んだ声で詩を詠み始めた。
「幽深たる夜に 皎々(こうこう)と——
天の彼方に孤月あり
照らすは誰がためぞや
清き光に心を寄せて——」
詩の一節が流れるたびに、殿内の空気が静かに変わる。
侍従たちも息をのんで聞き入り、慶成帝は目を細めた。
そして——
「……見事だ」
帝の声が響いた。
蘭雪は深く礼をする。
「過分なお褒めにございます」
「いや、お前の詩には心がある。ただ才があるだけではない。お前が見た月を、私もまた感じることができた」
帝の眼差しには、先ほどまでとは異なる光が宿っていた。
それは——興味。そして、わずかながらの期待。
「蘭雪、また機会を設けよう。お前の言葉をもっと聞いてみたい」
その言葉に、蘭雪は慎重に微笑む。
「陛下の仰せのままに」
——そして、この事で、蘭雪の名は、後宮の中でさらに広まることとなる。
蘭雪が紫宸殿を下がると、夜風がそっと頬を撫でた。
月は高く、静かに宮殿を照らしている。
——慶成帝は、何を考えているのか。
蘭雪はふと足を止め、先ほどのやり取りを思い返す。
(私の詩を褒めた……それだけならばよい。だが、陛下は“また機会を設けよう”と仰せだった)
それはつまり、これからも蘭雪に接する機会を作るということ。
それが単なる興味なのか、それとも別の意図があるのか——。
「……慎重に進めなければ」
蘭雪は呟き、再び歩みを進めた。
——皇帝の寵愛を受けることは、決して安泰ではない。
それを誰よりも知っているからこそ、蘭雪は一歩ずつ慎重に道を選ぶつもりだった。
翌朝・乾清宮
一方、慶成帝は御前で奏事を聞きながらも、時折、昨夜のことを思い返していた。
蘭雪の詩は、ただ美しいだけではない。
——心があった。
ただの才ではなく、彼女の詩には“意”があった。
(幽深たる夜に 皎々(こうこう)と——)
帝は無意識にその一節を繰り返す。
——あれは、蘭雪自身のことか?
闇の中で静かに光る月。孤独でありながらも、その輝きは澄み渡る。
(ふむ……面白い)
慶成帝は静かに扇を閉じた。
すると、側に控えていた宦官長・魏尚が、帝の表情を見逃さず、控えめに口を開く。
「陛下、蘭雪様の詩が、お気に召しましたか」
慶成帝は目を細め、魏尚を一瞥する。
「お前には、どう映った?」
魏尚は深く頭を下げ、慎重に言葉を選んだ。
「……才がございます。しかし、それだけではございません」
「ほう?」
魏尚はさらに声を低める。
「蘭雪様は、単なる才媛ではなく——己の身の置き方を理解されている方。決して驕らず、されど卑屈にもならず」
慶成帝はしばし沈黙し、やがて微笑を浮かべた。
「ふむ……確かにな」
帝の興味は、ますます深まっていった。
——そして、それを敏感に察した魏尚の目が、静かに光る。
(ならば、一度試してみるか——彼女が、どこまでの器かを)
後宮の奥深く、策謀が動き出そうとしていた——。
***
慶成帝の御前を辞した魏尚は、ゆっくりと乾清宮の廊下を歩いていた。
——蘭雪。
帝が関心を寄せた新たな存在。
ただの寵愛ならば、いずれ移ろうもの。だが、もし帝が彼女を特別視するようになれば——
後宮の力学が変わる。
魏尚は長年、宮廷に仕え、この後宮を陰から支えてきた。
皇后、太后、貴妃たち。誰が権力を握ろうとも、彼は常にその流れを読んできた。
そして今、新たな風が吹き始めている。
(試してみる価値はあるな)
魏尚は静かに微笑むと、すぐ側に控えていた若い宦官を手招きした。
「蘭雪様を、試す」
低く囁くその言葉に、若い宦官は小さく頷く。
「どのように?」
魏尚は扇をゆっくりと開き、目を細めた。
「陛下がご関心を示されたとなれば、後宮の者どもがどう動くか……見ものだな」
「まさか——」
「そうだ」
魏尚は微かに笑い、声を低くする。
「彼女に“試練”を与えるのだ」
——蘭雪は、この後宮でどこまで生き残れるのか?
魏尚は、じっと夜空を仰ぎ見た。
そして、その夜——
蘭雪の元へ、思わぬ使者が訪れることになるのだった。




