第六十五節 皇帝の関心
第六十五節 皇帝の関心
御前試問が終わった後、後宮の庭園には穏やかな静寂が広がっていた。
蘭雪は人目を避けるように歩きながら、慎重に考えを巡らせていた。
(——嘉儀容は、あえて争わなかった)
それは彼女が現状を守るための選択だったのか、それとも……?
蘭雪が深く思案に沈んでいると、不意に後ろから誰かの足音が聞こえた。
「——蘭雪」
静かでありながら、どこか柔らかな響きを持つ声。
蘭雪が振り返ると、そこには慶成帝が立っていた。
「陛下……」
「少し、付き合え」
慶成帝はそう言うと、蘭雪の返事を待たずに歩き出した。
蘭雪は内心警戒しながらも、彼の後に続いた。
二人は、池のほとりにたたずむ。
風が水面を撫で、わずかに揺れる波紋が、月の光を映していた。
慶成帝は、しばらく何も言わずに空を仰いでいたが、やがて静かに口を開いた。
「今日のそなたの言葉、興味深かった」
「……と、申されますと?」
蘭雪は慎重に問い返す。
慶成帝は微かに笑った。
「そなたは、単に嘉儀容を攻めなかっただけではない。むしろ、あの場で己の立場を強めた」
蘭雪の胸がわずかに高鳴る。
(——陛下は、そこまで見抜いていたのね)
慶成帝はゆっくりと歩を進めながら続けた。
「そなたのような者が、どうして今まで目立たなかったのか、不思議でならぬ」
「……私は、ただ慎ましく過ごしていただけです」
「そうか?」
慶成帝はふと立ち止まり、蘭雪の顔を正面から見つめた。
「——そなたは、慎ましく生きる者の目をしておらぬ」
蘭雪はその言葉に息をのんだ。
(……この方は、どこまで察しているの?)
慶成帝はしばらく蘭雪を見つめた後、ふっと微笑んだ。
「そなたに、ひとつ試練を与えよう」
「試練……?」
「詩を詠め」
「……詩を、でございますか?」
「うむ。即興で、私を満足させる詩を詠んでみよ」
慶成帝の目には、純粋な興味と、どこか試すような色が浮かんでいた。
(この試練、ただの遊びではないわね)
蘭雪は冷静に考える。
(これは、私の才を確かめようとしている)
蘭雪は静かに息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「それでは、詠ませていただきます」
——この詩こそが、彼の関心を試すものとなる。
蘭雪は、心の内でそっと言葉を紡ぎ始めた——。
風がそっと髪を揺らし、池の水面がわずかに波立つ。
やがて、彼女はゆっくりと目を開け、落ち着いた声で詠み上げた。
「夜静かに 銀漢流るる 瑠璃の池
風は優しく 玉樹を揺らし
誰をか想う この月の影よ」
一瞬、静寂が訪れる。
慶成帝は微動だにせず、じっと蘭雪を見つめていた。
(陛下は、どう受け止めるかしら……)
蘭雪は慎重に相手の表情を伺った。
やがて、慶成帝は小さく笑った。
「見事だ」
「恐れ入ります」
「そなたの詩は、静かでありながらも余韻がある。語ることなく、しかし心に響くものがあるな」
「陛下にお褒めいただけるとは、光栄に存じます」
蘭雪は恭しく一礼したが、心の中では注意深く考えていた。
(……この方は、どこまで私を試そうとしているのかしら)
慶成帝はふと空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。
「そなたは、誰を想ってこの詩を詠んだのだ?」
蘭雪の指先がわずかに強張る。
(——これは、陛下の試しの言葉)
彼女は微笑みを崩さず、静かに答えた。
「月を見て詠んだまでにございます」
「……ほう?」
慶成帝は楽しげに目を細めた。
「そなたは、なかなか興をそそるな」
その声音には、はっきりとした興味が滲んでいた。
蘭雪は再び深く頭を下げた。
(……これで、私は“皇帝の関心を引いた者”として、後宮の目に映ることになる)
それが、吉と出るか凶と出るか——まだ、分からない。
だが、この瞬間から、蘭雪の名は確かに慶成帝の心に刻まれたのだった。
慶成帝が蘭雪の詩を称賛した翌日、後宮では早くも噂が広がり始めていた。
「昨夜、御前で詩を詠んだのは蘭雪という女官だそうです」
「陛下が直接お褒めになったとか……!」
「あの方、入内したばかりでは?」
女官たちがひそひそと噂し、侍女たちもその話題を耳にしながら動き回る。
紫蘭殿では、皇后が静かにその話を聞いていた。
「……蘭雪、ね」
皇后は手にしていた白磁の茶碗をそっと置き、侍女に命じた。
「嘉儀容を呼びなさい」
間もなく、嘉儀容が優雅な足取りで現れ、恭しく礼をした。
「皇后様、お呼びでございますか」
「ええ。最近の後宮に、新たな波が立ち始めたようです」
嘉儀容は微笑を浮かべながら、静かに言った。
「……蘭雪のことでございますね」
「そう。あなたはどう思う?」
「確かに陛下の関心を引いたようですが、後宮では珍しくないこと。最初の寵愛を得る者など数多おります」
皇后は扇をゆっくりと開き、涼やかな微笑を浮かべた。
「最初の寵愛だけで終わればいいのだけれど……」
嘉儀容は皇后の言葉の裏を察し、そっと瞳を細めた。
「では、私に何かお命じになりますか?」
皇后はしばらく考え、やがて穏やかに言った。
「まだ慌てる必要はないわ。けれど、蘭雪という名が後宮にどれほど響くのか……確かめてみる価値はあるでしょう」
嘉儀容は深く一礼し、静かに部屋を辞した。
(皇后様が動き出されたということは——蘭雪、お前はもう後宮の闘いに巻き込まれたも同じよ)
嘉儀容の微笑みの奥には、冷ややかな光が宿っていた。
——後宮の均衡が、ゆっくりと、しかし確実に揺らぎ始めていた。




