第六十四節 宦官長の策略
第六十四節 宦官長の策略
詩の対決から数日が経ち、蘭雪の名は後宮に広まりつつあった。
「陛下は、蘭雪様の詩才をお褒めになられたとか」
「才色兼備とは、まさにこのことね……」
「でも、寵愛を得るには、それだけでは足りぬでしょう?」
噂話が飛び交う中、蘭雪は静かに日々を過ごしていた。
(皇帝は、まだ私に結論を下していない)
確かに関心を持たれた。しかし、それが寵愛となるか、あるいは単なる興味で終わるかは、まだ分からない。
そんな折、蘭雪のもとに思わぬ訪問者が現れた。
「蘭雪様、お迎えに参りました」
現れたのは、宦官長・魏尚。
(魏尚……?)
彼は宮中の権力を握る宦官長であり、皇帝の信頼厚き人物。しかし、それと同時に、後宮の勢力争いを巧みに操る者でもあった。
「魏尚様、私に何か?」
「お話がございます。少し、お時間を頂けますかな」
魏尚はにこやかに微笑むが、その瞳の奥は冷静に蘭雪を測っていた。
蘭雪はわずかに躊躇したが、断る理由もない。
「承知いたしました」
魏尚に連れられ、蘭雪が案内されたのは、静かな一室であった。
「蘭雪様、突然のお呼び立て、無礼をお許しください」
魏尚は丁寧に頭を下げるが、蘭雪はその真意を探るように彼を見つめた。
「恐れながら、宦官長自ら私をお呼びとは……何か御用でしょうか?」
魏尚は微笑を崩さぬまま、ゆっくりと口を開いた。
「蘭雪様——陛下は、貴方に興味をお持ちのご様子」
「……それは、光栄なことです」
「ですが、興味というものは移ろいやすいもの。ましてや後宮では、才覚だけでは生き残れませぬ」
(つまり、私が皇帝の寵愛を得られるかどうかを見極めようとしている……)
蘭雪は慎重に言葉を選んだ。
「宦官長は、私にどうしろと?」
魏尚は静かに微笑み、扇を開いた。
「試させていただきます——貴方が、どこまでの才をお持ちなのか」
「試す……?」
魏尚の目が鋭く光る。
「これより、ある宴を開きます。そこに貴方を招きましょう」
「宴……?」
「ええ。その席で、貴方に“ある課題”を与えます。それを見事にこなせるか——私が見極めさせていただきます」
(魏尚は、私を試すつもり……?)
蘭雪は心の中で警戒を強めた。
魏尚の試みが、単なる好奇心でないことは明らかだった。
(これは、宮中の権力者たちに認められる機会……しかし、一歩間違えれば——)
蘭雪は静かに息を整え、そして微笑を浮かべた。
「宦官長の試み、謹んでお受けいたします」
魏尚は満足げに頷いた。
「では、楽しみにしておりますぞ——蘭雪様」
***
魏尚が持ち込んだ巻物には、嘉儀容の秘密が記されていた。
蘭雪は、静かにその封を解いた。
「嘉儀容、家門を欺く」
そこには簡潔に、そう記されていた。
(……家門を欺く?)
嘉儀容は名門の出であり、麗昭媛と親しく、皇后にも一定の関係を持つ妃嬪。
彼女が「家門を欺いた」とは、一体どういう意味なのか——?
蘭雪は慎重に巻物の内容を読み進めた。
——そこには、嘉儀容の出生に関わる秘密が記されていた。
彼女の父は朝廷の高官であり、後宮に娘を入れることで家門の繁栄を図っていた。しかし、巻物の記述によれば、嘉儀容は実の娘ではなく、側室の子を本妻の子と偽って後宮に入れられたという。
(つまり……嘉儀容は、正式な家門の後継ではなく、偽られて育てられた存在?)
この事実が公になれば、彼女の立場は一瞬にして危うくなる。
——後宮において、家門の威光こそが最大の後ろ盾。
嘉儀容の地位が揺らげば、それは麗昭媛の勢力にも影響を与えることになる。
(魏尚は、これを利用しろと……?)
蘭雪は目を閉じ、深く思案する。
——この情報を御前試問で公にすれば、嘉儀容は失脚し、麗昭媛の影響力も削がれる。
——だが、迂闊に動けば、魏尚の思惑に嵌まり、私自身が駒とされてしまう。
(私は、この情報をどう使うべきか……?)
その時、蘭雪の脳裏に、沈逸の言葉が蘇った。
「お前のやり方で動け。だが、誰かの手の中で踊るな」
(そう……私は、魏尚の駒にはならない)
蘭雪は、ゆっくりと巻物を閉じた。
——この情報をどう使うか、それは私が決める。
翌日、御前試問の場。
後宮の妃嬪たちが整然と並び、慶成帝の前で発言の機会を待っていた。
——その視線が、一人の妃嬪に向けられていた。
嘉儀容。
彼女は麗昭媛の側近として、これまで冷静沈着に振る舞い、後宮内で一定の影響力を持っていた。
しかし、蘭雪の手には、彼女の出生に関する秘密が握られている。
(——この事実をここで暴けば、嘉儀容は失脚し、麗昭媛の勢力も揺らぐ)
蘭雪は慎重に考える。
だが——。
(魏尚の思惑通りに動けば、私自身が彼の駒になりかねない)
「蘭雪、そなたの考えを聞こう」
慶成帝の静かな声が響く。
蘭雪はゆっくりと顔を上げ、全ての視線を一身に受けた。
——ここでの一手が、後宮の勢力図を塗り替える。
彼女は、どのように動くべきか——?
(嘉儀容を追い詰めるのか。それとも——?)
蘭雪は静かに口を開いた。
「陛下、後宮の秩序とは、単に誰が強いかということで定まるものではございません」
その言葉に、妃嬪たちが微かにざわめく。
「陛下の御心に寄り添い、この宮廷を支える者こそが、真に後宮を治めるべき存在でございます」
蘭雪の言葉の奥には、暗に嘉儀容の忠誠を問う意図が込められていた。
——嘉儀容は、表情を変えずに蘭雪を見つめる。
(どう出るのかしら……嘉儀容)
蘭雪は、次の瞬間を待った。
すると、沈黙を破るように嘉儀容が静かに口を開いた。
「……蘭雪様の仰る通りでございます」
その場にいた誰もが驚くほど、彼女の声音は穏やかだった。
「私もまた、この後宮に仕える身。陛下と皇后様のお力をお支えすることこそ、妃嬪としての務め」
嘉儀容は静かに一礼した。
(……そう来るのね)
蘭雪は彼女の反応を見て、内心で微かに笑みを浮かべた。
嘉儀容は、あえて敵対することを避けた——。
(つまり、私の持つ秘密に気づいているということ)
(そして、これ以上敵を作ることの危険を悟ったということ)
蘭雪は、嘉儀容の出方を見極めるように、ゆっくりと頷いた。
少なくとも今日、この場で嘉儀容を失脚させる必要はない。
(彼女の動きを、もう少し見極めるべき……)
蘭雪は、ゆっくりと視線を皇帝へと戻した。
「陛下、これよりも後宮がより安泰であるよう、慎みをもって日々を過ごしてまいります」
蘭雪の言葉に、慶成帝は満足げに微笑んだ。
「うむ、そなたの心掛け、実に立派である」
——こうして、御前試問の場は静かに幕を閉じた。
だが、蘭雪と嘉儀容の静かな攻防は、まだ始まったばかりだった——。




