第六十三節 紫宸殿の誘い
第六十三節 紫宸殿の誘い
詩会が終わった後、蘭雪はゆっくりと庭園を後にした。背後では妃嬪たちのざわめきが絶えず続いている。
「紫宸殿へ参れ、ですって……?」
「まさか、たった一度の詩で陛下の目に留まるとは……」
「これで蘭雪様も、一歩抜きん出たということね」
それぞれの思惑を含んだ囁きが、後宮の空気に溶けていく。
そんな視線を背中に受けながらも、蘭雪は表情を変えず、静かに歩みを進めた。
(紫宸殿へ……陛下は、私に何を求めておられるのかしら)
その夜、蘭雪は召しの知らせを受け、紫宸殿へと向かった。
宦官の案内で通されたのは、皇帝の私的な書斎であった。
帳の向こうに座す慶成帝は、すでに書を広げており、筆を走らせていた。その姿は、威厳の中にもどこか穏やかさを感じさせる。
蘭雪は静かに一礼し、膝を折る。
「蘭雪、参りました」
慶成帝は筆を止め、彼女を見つめる。
「来たか」
声は落ち着いていたが、その奥には何かを探るような色があった。
「先の詩会——なかなかに興味深かった」
「過分なお言葉、恐れ入ります」
「そなたの詩は、ただ美しいだけではない。雪と梅の対比を詠むことで、己の立場を示したようにも思えた」
蘭雪はその言葉に、目を伏せる。
(やはり、陛下はお気づきなのね……)
詩の解釈は様々だが、今回の蘭雪の詩は、一つの象徴として受け取られる可能性があった。
——雪に埋もれながらも咲く梅のように、厳しい環境の中でも己を貫く者。
それは、まさに蘭雪自身の姿とも重なる。
「そなたは、後宮でどう生きるつもりか?」
ふいに、慶成帝が問いかけた。
蘭雪はゆっくりと顔を上げる。
「……私は、まだその答えを見つけられておりません」
「ほう?」
「ただ——」
蘭雪は視線をまっすぐに向けた。
「この後宮で、私はただ流されるだけの存在にはなりたくはないと存じます」
その言葉に、慶成帝は僅かに口角を上げた。
「面白いことを言うな」
彼は杯を手にし、軽く傾ける。
「ならば、そなたがどこまで行けるか——見せてもらうとしよう」
蘭雪は深く一礼し、その夜、紫宸殿を後にした。
翌朝、後宮の空気は一変していた。
「昨夜、蘭雪様が紫宸殿へ召されたと……」
「一夜で寵愛を得たのでは……?」
「いえ、どうやら陛下と話をされただけとか……」
「それならば、陛下はなぜ蘭雪様を呼ばれたのかしら……?」
妃嬪たちは憶測を飛ばしながらも、蘭雪の存在を無視できなくなっていた。
だが、それは同時に——
彼女が、後宮の権力争いの舞台に本格的に足を踏み入れたことを意味していた。
紫宸殿への召し出しから数日が経ったが、蘭雪のもとには何の音沙汰もなかった。
(陛下は、一度私を試し……そして、まだ結論を出していない)
そう悟った蘭雪は、静かに待つことを選んだ。焦ることなく、慎重に時を見極めるのが肝要である。
だが、後宮の者たちはそうはいかない。
「蘭雪様は、陛下のお気に入りになられたのでしょうか?」
「寵愛を得るのは時間の問題ね」
「けれど、なぜ陛下はそれほどまでに……?」
嫉妬、警戒、好奇——様々な感情が渦巻き、蘭雪の立場は急激に変化しつつあった。
そんな中、再び紫宸殿からの召しが届いた。
今度は夜ではなく、昼下がりの庭園での対面であった。
蘭雪が案内されたのは、皇帝がたびたび訪れるという静かな池の畔だった。
そこには、慶成帝の姿があった。
「参りました」
蘭雪は静かに一礼する。
「うむ。少し付き合え」
慶成帝は手にしていた巻物を開くと、蘭雪の前に差し出した。
「これは?」
「詩だ」
蘭雪は一読し、その内容に目を見張った。
(これは……古い詩ではなく、陛下が自ら詠まれたもの……?)
見事な筆致で書かれたその詩は、壮大な景色を詠みながらも、どこか寂寥を感じさせるものだった。
「どう思う?」
慶成帝の問いに、蘭雪は慎重に言葉を選んだ。
「……この詩には、広大な世界を望みながらも、孤独を抱えた心が映し出されているように感じます」
「ほう」
慶成帝の瞳が、興味深げに細められる。
「ならば、そなたも詠んでみよ。これに応える詩を」
それはつまり——即興での詩作を求められているということ。
(これは、単なる興味ではない。陛下は、私の才覚を試しておられる)
蘭雪は静かに息を整え、心を落ち着かせる。
やがて、彼女は口を開いた。
「雲は流れ、風は止まず
孤峰に立つも、影は一つ
広き空に響く声あり
誰ぞ応えん、この詩に」
それは、まるで孤高の皇帝に応えるような詩であった。
慶成帝はしばらく沈黙した後、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「面白い」
そう呟くと、彼は蘭雪をまっすぐに見据えた。
「そなた、詩の才だけではなく……物事をよく見ているな」
「恐れ入ります」
「蘭雪、そなたはこの後宮で何を望む?」
それは、単なる問いではない。
(ここでの答えが、今後の立場を左右する……)
蘭雪は一瞬だけ考え、そして迷いなく答えた。
「私は、己を貫ける道を望みます」
その言葉に、慶成帝は再び笑みを浮かべた。
「良い。ならば、その道を見せてもらおう」
こうして、蘭雪は皇帝からの正式な関心を得たのだった。
だが、それは同時に——後宮の権力争いに、さらに深く巻き込まれることを意味していた。




