第五十九節 麗昭媛との対峙
第五十九節 麗昭媛との対峙
紫蘭殿を辞した蘭雪は、ひそかに深いため息をついた。
魏尚の試練——麗昭媛を宥めること。
それは単なる「交渉」ではない。
麗昭媛は、皇后に対抗できるほどの家柄と影響力を持つ妃嬪。
彼女は後宮の一勢力を形成し、多くの妃嬪たちの支持を集めている。
そして、皇后と確執を抱えることで知られる存在。
(……つまり、皇后陣営の者が彼女を宥めることは、即ち服従を求めることと同じ)
簡単に応じるはずがない。
むしろ機嫌を損ねれば、麗昭媛陣営を敵に回すことになりかねない。
(これは、宦官長からの「試し」……)
蘭雪は、沈逸の言葉を思い出した。
——「魏尚公は、ただの忠臣ではない」
彼は皇帝に忠誠を誓いながらも、自らの判断で後宮の勢力を見極め、バランスを取る役割を担っている。
もし蘭雪がこの試練をうまく乗り越えれば、魏尚の評価を得ることができる。
逆に、しくじれば、皇后陣営の失策となりかねない。
(慎重に進めなくては……)
蘭雪は決意を固め、麗昭媛の住まう「華陽殿」へと足を運んだ。
華陽殿
静寂に包まれた宮殿の庭には、優雅に咲き誇る牡丹が風に揺れていた。
蘭雪が殿内に足を踏み入れると、室内には麗昭媛がしなやかな姿勢で座していた。
白い絹の衣をまとい、鋭くも美しい瞳で蘭雪を見据える。
「……皇后様の使いで?」
開口一番、そう言われた。
蘭雪は微笑みながら、恭しく一礼する。
「いいえ。本日は、宦官長・魏尚公のご意向で参りました」
「魏尚?」
麗昭媛の目が僅かに細められる。
蘭雪は慎重に言葉を選びながら続けた。
「陛下の御世が安寧であるよう、後宮もまた調和を保つべき……そう魏尚公はお考えです。そして私も、その思いに賛同する一人にすぎません」
麗昭媛は静かに蘭雪を観察する。
「つまり、私に『皇后様と争うな』と諭しに来たのね?」
蘭雪は微笑を絶やさずに答える。
「まさか。私はただ、麗昭媛様のお考えをお聞きしたいだけです」
麗昭媛は唇を軽く噛み、指先で茶碗の縁をなぞった。
「……あなた、ただの名もなき才人ではないわね」
「私など、まだまだ未熟者です」
麗昭媛は、冷ややかな笑みを浮かべる。
「……なるほど、魏尚が目をかける理由が分かったわ」
そして、彼女は茶を一口飲み、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「蘭雪……あなたに問うわ。あなたは、どちらの味方なの?」
蘭雪の胸が高鳴る。
——これは試されている。
彼女が皇后側か、それとも他の勢力か。
下手に答えれば、後宮の勢力争いに巻き込まれるだけでは済まされない。
蘭雪は静かに息を整えた。
そして、慎重に答える。
「私は……陛下の御世の安寧を第一に考える者でございます。」
麗昭媛の目が鋭く光る。
その場の空気が張り詰める。
だが次の瞬間——
「……ふふ」
麗昭媛は、微笑んだ。
「面白いわね、蘭雪」
蘭雪は、静かに麗昭媛の反応を見守る。
果たして彼女は、この言葉をどう受け取ったのか——。
蘭雪の慎重な答えを聞いた麗昭媛は、しばらく沈黙した。
華陽殿の広間には、静かな緊張が張り詰めている。
蘭雪は麗昭媛の反応を待ちながらも、心の中では次の一手を練っていた。
麗昭媛は、この言葉をどう解釈するのか——?
やがて、麗昭媛は微かに微笑し、茶碗を静かに卓に置いた。
「陛下の御世の安寧……ね。ずいぶんと慎重な答え方をするものだわ」
蘭雪は穏やかに微笑んだまま、返す。
「慎重というより、正直な気持ちを述べたまでです」
「ふふ……あなた、本当に興味深いわね」
麗昭媛は蘭雪をじっと見つめる。その目には冷静な分析の色があった。
「皇后は、あなたをどのように扱うつもりかしら?」
この問いには、明確な意図がある。
皇后の忠実な駒なのか、それとも別の意図があるのか——
蘭雪は慎重に言葉を選びながら答えた。
「私は、皇后様の御恩に報いる立場にございます。ですが、それは私が皇后様の意志のままに動くということではございません」
「……ますます面白いわね」
麗昭媛は微笑を深め、ゆっくりと扇を開いた。
「では、もし皇后様と私が正面から対立することになれば、あなたはどうするの?」
蘭雪は、微かな笑みを浮かべながら答える。
「それが後宮の安寧を乱すことになるのであれば、私は両者の間に立つべく努めます」
「仲裁をする、というの?」
「私にできることがあれば、ですが」
麗昭媛は、蘭雪のその答えを吟味するようにじっと見つめた。
そして、やや低く笑いながら、手元の扇を軽く揺らした。
「……あなたのような娘が後宮にいると、場が荒れるわね」
「恐れ入ります」
蘭雪は丁寧に頭を下げた。
—この場をしのいだ。だが、それだけでは終わらない。
麗昭媛は、ただ皇后に従うような単純な人物ではない。
むしろ後宮の均衡を保ちながら、自らの影響力を最大限に活かそうとする女だ。
だからこそ、蘭雪の「皇后に従いながらも独自の考えを持つ姿勢」は、麗昭媛にとって興味の対象となった。
麗昭媛はふと、そばの侍女に目を向けた。
「蘭雪に果物を持たせて差し上げなさい」
蘭雪は驚きを悟られぬよう、ゆっくりと微笑んだ。
贈り物を受け取るということは、麗昭媛が少なくとも「敵意を抱いてはいない」ことを示す。
(……この場は、ひとまず切り抜けた)
蘭雪は麗昭媛の視線を受け止めながら、静かに礼を述べた。
「麗昭媛様のお心遣い、ありがたく頂戴いたします」
だが、この対話の影で、麗昭媛はすでに次なる一手を考えていた——。




