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第五十八節 帝の試み

 第五十八節 帝の試み


夜風が帳を揺らし、微かに梅の香を運んでくる。御花園では、宮中の灯籠が柔らかな光を落とし、池の水面に揺らめく影を映していた。


蘭雪は庭先で立ち止まり、そっと空を仰ぐ。冬の夜空は澄み渡り、星々がきらめいている。その美しさに見とれていると、背後から低く落ち着いた声が響いた。


「詩を詠むのか?」


振り向けば、そこには 慶成帝 が立っていた。


漆黒の龍紋が施された衣を纏い、その端整な顔に微かな笑みを浮かべている。まるで気配を消していたかのように、彼の存在に蘭雪は気づかなかった。


慌ててひざを折り、深々と頭を下げる。


「陛下……」


「顔を上げよ」


柔らかな命令に従い、蘭雪は静かに視線を上げる。慶成帝は彼女を見つめ、何かを確かめるように目を細めた。


「先日、お前が沈貴人の件で見せた振る舞い——なかなか興味深かった」


沈貴人の一件。蘭雪は慎重に言葉を選びながら口を開く。


「陛下の御前では、私は取るに足らぬ存在に過ぎません」


「ほう? ならば、お前は何をもって価値を示す?」


慶成帝は軽く片眉を上げた。その目には、ただの好奇心ではない何かが宿っている。


「才を以って示すならば、どうだ?」


蘭雪は驚いた。


「才……と申されますと?」


「詩だ」


慶成帝は朗々と続けた。


「この夜の風情を詠み、我と詩を交わしてみよ」


即興の詩対決——蘭雪は一瞬、戸惑いながらも、すぐに覚悟を決めた。


(この場を乗り切るには、ただ巧みな詩を詠むだけでは足りない。陛下の意図を読み、彼の心に響く言葉を紡ぐことが必要……)


蘭雪は深く息を吸い込み、夜空を見上げた。


「露重き梅の枝に 月冴ゆる夜を惜しむ——」


詠じた瞬間、慶成帝の唇がわずかに動いた。


彼は目を細め、口元にかすかな微笑を浮かべながら、続けて詠んだ。


「風は静かに香を運び 影は水面に映るなり」


二人の詩が、夜の静寂に溶け込んでいく。


その瞬間、慶成帝は満足げに笑い、ゆっくりと歩み寄った。


「なるほど、お前の言葉は、ただの飾りではないようだな」


蘭雪は再びひざを折り、静かに答えた。


「陛下の御心に適うものであれば、幸いにございます」


慶成帝はしばし彼女を見つめ、やがて背を向けた。


「面白い」


その一言だけを残し、彼は去っていく。


——その言葉の意味が、蘭雪にはまだわからなかった。


しかし、この一夜が、後宮における 彼女の運命を変える転機 となることは間違いない。


慶成帝との詩の対決から数日が経ったが、蘭雪の心には未だにあの夜の余韻が残っていた。


——「面白い」


あの言葉が何を意味するのか。


陛下の関心を引くことができたのは間違いないが、それが吉と出るか凶と出るかは、まだ分からない。


蘭雪は警戒を緩めることなく、日々を過ごしていた。


そんな折、彼女のもとに 魏尚ぎしょう からの呼び出しが届いた。


魏尚——宮中の宦官長にして、慶成帝の最も信頼する側近。


後宮において彼の言葉は絶大な影響力を持ち、宦官たちの頂点に君臨する人物 である。


(……なぜ私を?)


沈逸の助言が蘭雪の脳裏をよぎる。


——「魏尚公は陛下の忠臣だが、ただの忠犬ではない。慎重にことを運べ」


魏尚は、陛下の命によって動く一方で、自らもまた 後宮の均衡を見極め、時には独自に試練を仕掛ける ことで知られていた。


(私を試すというのなら……ここでの立ち回りが、今後を左右することになる)


蘭雪は呼び出しに応じ、慎重に紫蘭殿へと向かった。


紫蘭殿の奥、魏尚は長椅子に腰掛け、静かに茶を嗜んでいた。


蘭雪が恭しく頭を下げると、魏尚は穏やかに微笑んだ。


「蘭雪殿、わざわざ足を運ばせてしまいましたな」


「宦官長自らお呼びとは、私ごときに何か御用でしょうか」


魏尚は薄く笑い、手にした茶杯を軽く揺らす。


「ふむ、さて、どのように説明したものか」


そして、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。


「陛下は、あなたを『面白い』とおっしゃった」


蘭雪の胸が僅かにざわめく。


「それは光栄なことでございます」


魏尚は笑みを深めた。


「だが、『面白い』が『寵愛する』に繋がるとは限らぬ」


茶杯を置き、蘭雪をじっと見据える。


「では、陛下が貴女を試したいとお思いになるのは、どのような時か?」


蘭雪は、慎重に言葉を選んだ。


「……陛下が求めるものは、ただの美しさや才覚ではなく——御心に寄り添い、後宮を安定させる才でしょうか」


魏尚は満足そうに頷いた。


「なるほど、やはり噂通りの聡明さよ。ならば、貴女にもう一つ、試練を課すとしよう」


蘭雪は静かに身構えた。


魏尚はゆっくりと微笑みながら、次の言葉を告げた。


「貴女に、ある人物を宥めてほしいのです。そう、麗昭媛れいしょうえん殿を」


その名を聞いた瞬間、蘭雪の胸に緊張が走る。


麗昭媛——皇后と対立する実力派の妃。


彼女を宥める?


(これは、試されている……)


魏尚は、蘭雪がこの状況をどう乗り切るのかを見定めようとしているのだ。


蘭雪は、静かに深呼吸をし、慎重に答えた。


「……承知いたしました」


魏尚の唇に微かな笑みが浮かぶ。


「良い返事だ。では、見せてもらおう——蘭雪殿、貴女の才を」


こうして、蘭雪は次なる試練へと足を踏み入れた。

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