第五十七節 皇后の罠を超えて
第五十七節 皇后の罠を超えて
「次の一手をどう打ちましょうか?」
沈逸の言葉に、蘭雪は静かに瞳を閉じた。そして、深く息を整え、再び目を開くと、その表情には確信が宿っていた。
「皇后様の真の狙いは、沈貴人の忠誠心を試すことではないわ」
「ほう?」
沈逸が興味深げに身を乗り出す。
「むしろ、沈貴人を通じて、私たちの出方を探ろうとしていたのよ」
「なるほど。つまり、皇后様は“我々がこの策にどう反応するか”を見ていたと?」
蘭雪は頷く。
「沈貴人を試すこと自体が囮。皇后様の本当の目的は、私とあなた——特にあなたの動きを観察することだったのでは?」
沈逸は思わず笑った。
「ふむ、それは面白い。確かに、皇后様の視線は終始私の動きを捉えていた気がする」
「だからこそ、完璧な対応をする必要があるわ」
蘭雪は燭台の炎を見つめながら、静かに言葉を続けた。
「皇后様が何を求めているのかを逆手に取る。彼女が望んでいるのは、“私たちが沈貴人をどこまで守るか”の確認——ならば、それを超える策を講じればいい」
沈逸は興味深そうに眉を上げた。
「ほう。それはどのように?」
蘭雪はゆっくりと微笑んだ。
「皇后様が沈貴人を“試す”のなら、私たちは彼女を“守る”のではなく、“成長させる”のよ」
「……ほう?」
「沈貴人をただの守られる存在ではなく、後宮で自ら立ち回れる存在にする。そして——皇后様が見極めようとしていた“忠誠心”を、彼女自ら示す機会を作るのよ」
沈逸の目が輝く。
「なるほど、それは面白い。つまり、皇后様が沈貴人を囲い込もうとするなら、逆に彼女に“皇后様の信頼を得させる”というわけですね」
蘭雪は頷く。
「ええ。沈貴人が“自分で皇后様の信頼を勝ち取る”ならば、私たちの介入は不要になる。皇后様も彼女を試す理由を失い、私たちの警戒を解くはず」
沈逸はしばし考え、やがて愉快そうに笑った。
「面白い。では、私は少し手を貸すとしましょう」
「……何をするつもり?」
沈逸は扇を開き、意味深に微笑んだ。
「沈貴人には、もう少し強くなってもらう必要がありますね」
蘭雪は沈逸を見つめながら、確信した。
(これで、皇后様の策略を超える——)
静寂の中、沈貴人は深く息を整えていた。
目の前にいるのは、蘭雪と沈逸。
彼女は二人の視線を受けながら、拳を握りしめる。
「——つまり、私は“皇后様の信頼を自らの手で勝ち取る”必要があるのですね」
沈逸は満足げに頷き、微笑んだ。
「その通りです。あなたが皇后様の試練を“受ける”のではなく、“乗り越える”のであれば、我々が守る必要もない。むしろ、皇后様の期待を超え、信頼を勝ち取ることができる」
沈貴人の胸の内には、今も迷いがあった。
——私は、本当にそんなことができるのか?
これまで彼女は、流れに身を任せることが多かった。
皇帝の寵愛を受けることで、後宮での立場を保とうとした。
しかし、それではいずれ限界が来ることを、蘭雪と沈逸は見抜いていた。
「……どうすれば、皇后様の信頼を得ることができるのでしょうか?」
沈逸が扇を軽く開き、余裕の笑みを浮かべる。
「簡単なことです。“あなたが皇后様の意志を汲み、忠誠を示しながらも、決して流されることのない存在”であると証明すればいい」
蘭雪も沈貴人に向かって一歩近づき、穏やかに言葉を紡ぐ。
「沈貴人、あなたには才があります。皇后様が試練を課したのは、あなたを試すためではなく、“見極める”ため。ならば、試されるだけで終わるのではなく、自ら道を切り開くのです」
沈貴人は息を呑んだ。
(道を……切り開く?)
「私は、今まで後宮の波に流されるままに生きてきました。でも……」
自らの手を見つめながら、彼女は言葉を続ける。
「もし、私にできることがあるなら……私はそれを試してみたい」
沈逸が愉快そうに微笑んだ。
「決意しましたね?」
「ええ。蘭雪様、沈逸様、どうかお知恵をお貸しください」
蘭雪は優しく微笑み、静かに頷いた。
「ええ、一緒に考えましょう。あなたが、この後宮で生き残るために——そして、自らの立場を確立するために」
沈貴人は深く一礼し、決意を胸に刻んだ。
(もう、私はただの寵姫ではいられない——)
***
紫蘭殿の帳の奥、皇后は沈貴人を静かに見つめていた。
「あなたは、どのように私に忠誠を示すのかしら?」
皇后の声音は穏やかだが、その裏には試すような鋭さがあった。
沈貴人は深く一礼し、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には迷いが消え、代わりに確固たる決意が宿っていた。
「皇后様の御心を察し、私もまた、この後宮を守るために力を尽くします」
その言葉を聞いた皇后の目が僅かに細まる。
「後宮を守る、ですって?」
「はい。皇后様の御立場を脅かす者……例えば、皇太后様に近づく者や、陛下を惑わし秩序を乱そうとする妃嬪たち。それらを牽制し、皇后様の御力を盤石なものとするお手伝いをさせていただきます」
沈貴人は慎重に言葉を選びながらも、その声は震えなかった。
皇后はしばらく沈黙し、扇をゆっくりと閉じる。そして、微笑を浮かべた。
「興味深いわ。つまり、あなたは私のために動くと?」
沈貴人は一瞬躊躇したが、すぐに頷いた。
「はい。ですが、それは皇后様の命じるままに動くという意味ではございません。私は私なりのやり方で、後宮の秩序を守るつもりです」
「ふふ……面白いことを言うのね」
皇后は軽く笑ったが、その笑みの奥には計り知れぬ思惑が渦巻いていた。
「ならば、見せてもらいましょう。あなたの“やり方”とやらを」
沈貴人は深く頭を下げ、静かに部屋を辞した。
廊下に出ると、そこには蘭雪と沈逸が待っていた。
沈貴人は二人を前にし、そっと息を整える。
「……私は、皇后様の側につくことを決めました」
沈逸が興味深そうに片眉を上げる。
「随分と大胆な決断をしたな」
蘭雪も沈貴人を見つめ、その真意を探るように口を開く。
「沈貴人、本当にそれでいいの?」
沈貴人は静かに微笑んだ。
「ええ。私はこの後宮で生き残るために、ただ守られるだけの存在にはなりたくありません。だからこそ……自ら戦う道を選んだのです」
蘭雪と沈逸は目を合わせ、沈貴人の決意を確かめる。
やがて沈逸が微かに笑い、肩をすくめた。
「ならば、見届けるとしよう。沈貴人、お前の“やり方”とやらを」
沈貴人は小さく頷き、月の光に照らされた廊下を、しっかりとした足取りで歩き出した。
(私はもう、ただの貴人ではいられない——)
後宮の権力争いの渦に、沈貴人は自ら足を踏み入れたのだった。




