第五十六節 皇后への忠誠
第五十六節 皇后への忠誠
紫蘭殿の帳が静かに揺れ、微かな香が空間に漂う。
沈貴人は背筋を伸ばし、皇后の前に跪いた。
「皇后様、お呼びいただき光栄に存じます」
皇后は扇を軽く揺らしながら沈貴人を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「随分と落ち着いた顔をしているわね。恐れはないの?」
沈貴人は一瞬間を置き、穏やかな口調で答えた。
「皇后様の御前で恐れを抱くほど、私はまだ未熟ではございません」
皇后の目が僅かに細まり、満足げに頷く。
「よろしい。では、貴女の忠誠を証明してもらいましょう」
沈貴人は深く頭を下げた。
「私にできることならば、何なりと」
皇后は扇を閉じ、侍女に目配せをする。
侍女が一歩前に進み、銀の盆を差し出した。その上には、小さな薬包が置かれている。
「これは……?」
沈貴人が問いかけると、皇后は微かに微笑んだ。
「蘭雪に渡しなさい」
沈貴人の指先が一瞬強張った。
「蘭雪様に、これを……?」
「ええ。何も知らぬ顔で、ただ茶に混ぜればいい」
沈貴人は薬包を見つめた。
皇后が蘭雪を警戒し始めていることは明らかだった。蘭雪が持つ知略、そして陛下の寵愛——それが皇后の脅威となりつつあるのだろう。
「貴女が私の側の人間であるのなら、迷うことはないはずよ?」
皇后の言葉は柔らかいが、その奥にある冷たい鋭さを沈貴人は感じ取った。
「……承知いたしました」
沈貴人は薬包を両手で受け取った。
皇后は満足げに微笑み、再び扇を開く。
「では、期待しているわ」
沈貴人は深く一礼し、紫蘭殿を後にした。
廊下を進むうちに、手の中の薬包が重く感じられる。
(このまま渡せば、蘭雪様に害が及ぶ……しかし、断れば——)
後宮の冷たい空気が、沈貴人の選択を試すように包み込んでいた。
紫蘭殿を出た沈貴人は、静かに薬包を握りしめたまま歩を進めた。
(皇后様の命を断れば、私の立場は危うくなる……しかし、このまま蘭雪様に渡せば——)
蘭雪がどれほど聡明で、どれほど己を助けてくれたかを思い返す。その恩を裏切ることは、彼女にはできなかった。
「沈貴人」
不意に、低く落ち着いた声が響いた。
顔を上げると、沈逸が柱の陰から現れた。
「……沈公公」
沈貴人の胸がざわめく。
沈逸は相変わらず整った顔立ちを崩さず、ゆっくりと沈貴人に近づいた。
「皇后様から、何か託されたようですね」
沈貴人は驚愕し、思わず薬包を袖の中へと押し込んだ。
しかし、沈逸の目は鋭く、それが何かを知っているかのようだった。
「——それを蘭雪様に渡すおつもりですか?」
沈貴人の手が強張る。
「私は……」
沈逸は微かに微笑み、声を潜めて囁いた。
「沈貴人、貴女が本当に生き延びたいのなら、賢い選択をすることです」
「賢い選択……?」
沈逸は扇を開き、何事もないように笑う。
「ここで、蘭雪様を裏切るということが、どういう意味を持つのか——貴女なら理解できるでしょう?」
沈貴人は沈黙したまま、薬包を握りしめた。
沈逸はもう一歩近づき、沈貴人の耳元で囁く。
「その薬包を、私に預けなさい」
「——え?」
沈逸の目は優雅に笑みを浮かべながらも、そこに潜む冷静な計算を沈貴人は感じ取った。
(この人は……何を考えているの?)
沈逸はゆっくりと手を差し出す。
「このまま皇后様の命に従えば、貴女は蘭雪様を敵に回す。しかし、私に渡せば——貴女の立場は守られる」
沈貴人は唇を噛んだ。
(私に選択を迫っている……沈逸は、どこまで読んでいるの?)
皇后と蘭雪——どちらに与するかは、彼女の今後の運命を大きく左右する。
沈貴人は息を整え、ゆっくりと目を閉じた。
そして——
彼女は、薬包を沈逸の手の中へと落とした。
沈逸は満足げに微笑み、扇をひらりと揺らした。
「賢い選択ですね」
沈貴人は何も言わず、静かに頭を下げた。
沈逸は薬包を懐にしまい、そのまま何事もなかったように去っていく。
沈貴人は彼の背中を見送りながら、胸の中のざわめきを抑えた。
(私は——正しい選択をしたのだろうか?)
そして彼女は、静かに紫蘭殿を後にした。
夜の帳が降りる頃、沈逸は静かに自らの居室へ戻った。
掌の中に収めた小さな薬包——それをゆっくりと机の上に置き、細長い指で丁寧に広げる。
(皇后様が沈貴人に託したもの……これをどう扱うかが、次の局面を決める)
扇を軽く揺らしながら、沈逸は薬の匂いを確かめた。
(やはり、これは……)
「——公公様、お戻りでしたか」
不意に、そばに仕えている若い宦官が声をかける。
「少しお時間を頂けますか?」
沈逸は扇を閉じ、穏やかな笑みを浮かべたまま頷いた。
「何かあったのか?」
宦官は一歩近づき、小声で囁く。
「蘭雪様が、貴方とお話しされたいとのことです」
沈逸は目を細める。
(彼女が動いたか……)
「わかった。すぐに向かおう」
そう言うと、沈逸は薬包を懐にしまい、軽やかに立ち上がった。
——蘭雪は、何を察知したのか。
沈逸は微笑みを崩さぬまま、月明かりの下を歩き始めた。
***
静寂の中、蘭雪は燭台の揺れる炎をじっと見つめていた。
(沈逸は何かを企んでいる——)
そう確信したのは、沈貴人が皇后の試練を受けた直後からだった。彼の動きがいつになく慎重になり、何かを隠している気配があった。
「……まさか」
蘭雪は小さく息をつきながら、用意された茶を口にする。そこへ——。
「夜更けにお呼びとは、光栄ですね」
軽やかな声とともに、沈逸が姿を現した。月明かりを背に立つ彼の姿はどこか余裕に満ちている。
「お忙しいところ、すまないわ」
蘭雪は静かに席を勧める。沈逸は微笑みながら対面に腰を下ろし、扇を開いた。
「さて、何のお話でしょう?」
蘭雪は彼の表情を伺いながら、ゆっくりと問いかけた。
「皇后様が沈貴人に与えた薬——あなたもそれを調べたのでは?」
沈逸の扇が一瞬止まる。だが、すぐに軽く笑った。
「さすがですね。ええ、確かに拝見しました」
「それで、何かわかったの?」
蘭雪の瞳が鋭く光る。
沈逸は扇を閉じ、机の上に置いた。
「——ただの薬ではありませんね」
「やはり……」
蘭雪の予感は当たっていた。
「しかし、私が気になったのは、その成分ではなく“皇后様の意図”です」
沈逸はゆっくりと蘭雪を見つめた。
「彼女は、沈貴人を試しただけではない。もっと深い意味があるはず」
「……例えば?」
「例えば、“誰かがそれに気づくこと”を期待していたとかね」
蘭雪は息をのんだ。
(皇后様が、最初から私たちの動きを見越していた……?)
沈逸は楽しげに微笑む。
「さて、次の一手をどう打ちましょうか?」
蘭雪は拳を握りしめながら、次の策を巡らせた——。




