第五十五節 沈貴人の誘い
第五十五節 沈貴人の誘い
沈貴人の宮である蘭華殿は、静かな闇に包まれていた。
だが、静寂の中にも確かな気配がある。
それは、沈逸が張り巡らせた罠に引き寄せられた者たちの影——。
宮女の一人がそっと扉を開け、室内に忍び込んだ。
「沈貴人様……」
小さな声が沈貴人の眠りを破る。
まつげを震わせながら目を開いた彼女は、暗がりに立つ宮女の姿を認めた。
「……何事?」
宮女は周囲を警戒するように一歩近づき、小声で囁く。
「お伝えしなければならないことがございます。お一人で、お聞きいただけますか?」
沈貴人は目を細めた。
(この夜更けに? しかも、宮女が直接……?)
違和感を覚えながらも、彼女は布団を抜け出し、宮女を手招きした。
「話して」
「……実は」
宮女が口を開きかけた、その時——。
「そこまでだ」
低く冷ややかな声が響いた。
驚いた宮女が振り返ると、そこには沈逸が立っていた。
沈貴人も驚き、思わず息を呑む。
「沈逸……!」
沈逸は無言のまま、ゆっくりと宮女に歩み寄った。
「お前は誰の指示で動いている?」
宮女は顔を青ざめ、後ずさる。
「そ、そんな……私はただ……」
「答えろ」
沈逸の声音は冷酷だった。
沈貴人が不安げに沈逸の袖を掴んだ。
「沈逸、この者は……?」
沈逸は沈貴人を一瞥し、静かに言った。
「今夜、お前を宮外に連れ出す計画があった。目的は分からないが、単なる散策ではないだろう」
沈貴人の背筋が凍る。
「……私を、連れ出す?」
沈逸は頷くと、再び宮女に目を向けた。
「このまま黙っているつもりか?」
宮女は震えながら唇を噛みしめた。
「申し訳ございません……私は……」
沈逸は彼女の動揺を見逃さなかった。
「——皇后の差し金か?」
宮女の顔がさらに青ざめる。
沈貴人は息を詰め、沈逸を見た。
「皇后様が……?」
沈逸は目を細めると、ゆっくりと頷いた。
「今夜のこと、詳しく聞かせてもらおう」
闇に蠢く陰謀の輪郭が、ようやく浮かび上がろうとしていた。
沈貴人の寝殿は、沈逸の冷たい眼差しによって張り詰めた空気に満ちていた。
震える宮女を前に、沈逸は静かに言った。
「もう一度聞こう——誰の指示で沈貴人を連れ出そうとした?」
宮女は必死に沈逸の視線から逃れようとしたが、それは叶わなかった。
「……申し訳ございません……私には……」
「嘘は不要だ」
沈逸の声は低く、しかし鋭く響いた。
沈貴人はそんな沈逸の様子を見つめながら、そっと口を開く。
「沈逸……この者の話を、もう少し穏やかに聞いてあげては?」
沈逸はちらりと沈貴人を見たが、すぐに宮女へと目を戻す。
「……お前が話さなければ、こちらで手を回すまでだ」
沈逸が指を弾くと、部屋の外から黒衣の影が一つ、静かに現れた。
「!」
宮女の顔から血の気が引いた。
沈逸の側近であり、彼の命令一つで動く密偵——魏清であった。
沈逸は宮女を冷たく見つめながら言う。
「魏清、この者を調べろ。身元と、ここに至るまでの経緯を洗い出せ」
魏清は無言で宮女の腕を掴み、そのまま外へと連れ出した。
宮女は最後の抵抗を試みるかのように沈貴人へと視線を向けたが、沈貴人はその視線を受け止めつつも、何も言わなかった。
扉が閉まると、部屋には沈逸と沈貴人だけが残った。
沈貴人は小さく息をつき、沈逸に向き直る。
「沈逸……今の者、本当に皇后様の差し金なの?」
沈逸は静かに頷いた。
「可能性は高い。今夜お前を宮外に連れ出し、何かしらの形で操ろうとしたのだろう」
沈貴人は唇を噛む。
「……私は、試されているのね」
「いや——狙われている」
沈逸の言葉は冷たかった。
沈貴人はふと窓の外を見る。月が雲に隠れ、闇が深くなっていた。
「なら、私はどうすればいいの?」
沈逸は黙って彼女を見つめた。
そして、ふっと微笑む。
「お前の手で道を選べ。だが、俺が支えることは忘れるな」
その言葉に沈貴人の胸が高鳴る。
(この人は、私を……)
沈貴人の決意が、静かに固まっていった。
沈貴人は静かに目を閉じた。
沈逸の言葉が胸の中に響いている——「お前の手で道を選べ」
皇后の策略、宮女の裏切り、そして沈逸の支え——彼女は今、分岐点に立っていた。
「……沈逸」
沈貴人がゆっくりと口を開くと、沈逸は静かに彼女を見る。
「私がここで何もしなければ、いずれ皇后様の手によって完全に掌握されるでしょう」
沈逸は黙って頷いた。
「しかし、逆に私が軽率な動きをすれば——それもまた、皇后様の思う壺になる」
沈逸の目が僅かに細まる。
「つまり、お前はどうする?」
沈貴人はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる暗闇を見つめた。
「私は……皇后様の元へ向かいます」
沈逸の目が僅かに鋭くなった。
「何をするつもりだ?」
沈貴人はゆっくりと振り返り、沈逸をまっすぐに見つめる。
「私の忠誠を示すのよ」
「……ほう?」
沈逸の唇が僅かに持ち上がる。
「それで?」
沈貴人は微笑みながら続けた。
「皇后様の信頼を勝ち取る。そして、その上で、私の立場をより強固なものにするの」
沈逸は沈黙したまま、じっと沈貴人を見つめていた。
沈貴人は自らの胸に手を当てる。
「私は生き残るために、この後宮にいるのではありません」
「——私は、勝つためにここにいるのよ」
その言葉に、沈逸は微かに笑った。
「……いいだろう」
彼は懐から小さな紙片を取り出し、沈貴人に渡す。
「これは?」
「皇后の側近の一人、李尚宮の動きを探っている者の報告書だ」
沈貴人は驚いたように目を見開く。
「李尚宮……?」
沈逸は軽く頷く。
「お前が皇后に忠誠を示すのなら、利用できる駒は多い方がいい」
沈貴人は紙片をそっと握りしめ、沈逸に微笑んだ。
「ありがとう、沈逸」
沈逸は何も言わず、ただ微笑み返すだけだった。




