第五十四節 忍び寄る影
第二章 第五十四節 忍び寄る影
沈貴人の宮は、夜の静寂に包まれていた。
外殿には女官と宦官たちが控えていたが、誰もが普段以上に警戒を強めている。それでも、何者かが密かに忍び込もうとしているのなら、表立った警備だけでは防げない。
蘭雪は灯火を落とし、沈貴人とともに寝殿の奥に身を潜めていた。
「本当にここに残るの?」
沈貴人は心配そうに蘭雪を見つめたが、蘭雪は微かに微笑んだ。
「ええ。あなた一人を危険に晒すわけにはいかないもの」
沈貴人は小さく息をついた。
「……ありがとう」
その時——
微かな衣擦れの音 が、闇の中に響いた。
蘭雪はすぐに気配を探る。
(来た……!)
音は、寝殿の奥へと続く扉の向こうからだ。誰かが、こちらの様子を窺っている。
蘭雪は沈貴人にそっと目配せをし、手近にあった布を沈貴人の肩に掛けた。
「私が様子を見てくるわ。あなたはここにいて」
「でも——」
「大丈夫」
沈貴人が不安げに蘭雪の袖を掴んだが、蘭雪は優しく手を添えてそれを解いた。
静かに寝台から降り、足音を殺しながら扉へと近づく。
(誰……?)
寝殿の外から、さらに微かな気配がする。
——何者かが、扉の向こうにいる。
蘭雪は深く息を吸い、意を決して扉を開けた。
その瞬間——
ふわりと冷たい風が舞い込んだ。
しかし、そこには誰もいない。
だが——床に一枚の紙が落ちていた。
蘭雪はそれを拾い上げ、紙に記された文字を目で追った。
——「沈貴人は狙われている。決して独りになってはならない」
筆跡は、先日のものと同じだった。
沈貴人の寝殿に忍び込んだ者と、この紙を残した者——同一人物なのか、それとも別の意図を持つ者なのか。
蘭雪は紙を折り畳み、寝殿へと戻った。
「どうだったの?」
沈貴人が不安そうに尋ねる。
「姿は見えなかったけれど、これが残されていたわ」
蘭雪は紙を差し出した。沈貴人が震える指でそれを受け取る。
「……やっぱり、誰かが私を……」
沈貴人の表情が曇る。
蘭雪は沈貴人の手をしっかりと握った。
「心配しないで。あなたは私が守るわ」
沈貴人はかすかに頷いたが、その瞳には深い不安が滲んでいた。
この後宮には、未だ明かされぬ陰謀が潜んでいる——。
夜が更けるにつれ、後宮の闇はより一層深みを増していた。
沈貴人の宮から戻った蘭雪は、静かに自室へと足を運んだ。
しかし、その途中——
「夜更けにどこへ行くつもりだ?」
涼やかな声が闇の中から響いた。
蘭雪は足を止め、声の主に目を向ける。
薄明かりに照らされたのは、藍色の衣をまとった沈逸だった。
彼は柱にもたれ、軽く腕を組んでこちらを見ている。
しかし、その瞳には普段の飄々とした色はなく、どこか鋭い光が宿っていた。
「……沈逸」
蘭雪は落ち着いた声で彼の名を呼んだ。
「沈貴人の宮にいたのか?」
沈逸の問いに、蘭雪は答えを濁さずに頷いた。
「ええ。誰かが忍び込んだ形跡があったの」
沈逸の眉がわずかに動く。
「やはり、動き出したか……」
「……あなたは、この件について何か知っているの?」
蘭雪が問いかけると、沈逸は一瞬黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「確証はないが、沈貴人を狙っている者がいるのは間違いない。そして、それは単なる嫉妬や個人的な恨みではない」
「どういう意味?」
沈逸は周囲を軽く見渡し、慎重に言葉を選ぶ。
「これは“勢力争い”だ。沈貴人が皇帝の寵愛を得たことで、誰かの計画が狂った。そして、その誰かが、沈貴人を排除しようとしている」
蘭雪の表情が険しくなる。
「……皇后?」
「可能性はある。しかし、まだ決めつけるには早い」
沈逸はゆっくりと息を吐き、蘭雪をまっすぐに見つめた。
「お前が沈貴人を守るつもりなら、覚悟をしておけ」
「もちろんよ」
蘭雪の即答に、沈逸はふっと微笑を浮かべる。
「……本当に、お前は面白い女だ」
「今さら何を」
蘭雪が軽く睨むと、沈逸は少しだけ肩をすくめた。
「さて、俺も動くとしよう」
「沈逸……あなた、何をするつもり?」
蘭雪が問いかけると、沈逸は月を見上げ、静かに微笑んだ。
「“敵”が誰なのかを暴く。そして——」
沈逸は蘭雪の目をじっと見つめ、低く囁いた。
「お前を巻き込ませはしない」
その言葉に、蘭雪の胸が僅かにざわつく。
沈逸は何をするつもりなのか——
彼の決断が、後宮の均衡を崩すことになるのか——
それはまだ、誰にも分からない。
静寂に包まれた夜の後宮。
月光が庭の石畳を淡く照らし、涼やかな風が柳の葉を揺らしていた。
沈逸は一人、宦官の通用口を抜けると、迷いのない足取りである場所へと向かっていた。
そこは後宮の奥、使われなくなった小さな離れの一角——闇に紛れた密会の場だった。
扉を開くと、すでに一人の男が中に待っていた。
「遅かったな」
低く抑えた声。
そこにいたのは、沈逸と密かに繋がる禁軍の副将・厳律だった。
沈逸は扉を閉め、静かに室内を見渡した。
粗末な卓の上には一壺の酒と二つの盃が置かれている。
「急ぎの話だったはずだが、酒を飲む暇はあるのか?」
沈逸は軽く皮肉めいた笑みを浮かべるが、厳律は気にも留めずに盃を手に取った。
「こういう話は、酒がないとやりにくいもんだ」
「……それも一理ある」
沈逸は盃を手に取り、一口だけ喉を潤した。
そして、盃を置くと表情を引き締め、低く切り出した。
「沈貴人の件——調べはついたか?」
厳律は盃を回しながら、ゆっくりと頷いた。
「ああ。お前の予想通り、沈貴人を狙っているのは皇后の側近の一派だ」
「やはりな……」
沈逸は目を細めた。
「確証はあるのか?」
「直接的な証拠はまだないが、宮中の動きを見れば明らかだ。皇后の侍女の何人かが密かに沈貴人の侍女と接触していた。さらに、昨日の夜には、沈貴人の宮の近くに不審な人物がうろついていたとの報告もある」
沈逸はしばし沈思する。
「……皇后自らの命ではない可能性は?」
「低いな。少なくとも、皇后が容認しているのは確かだろう」
沈逸は深く息を吐き、盃の酒を一気に飲み干した。
「ならば、先手を打つ」
厳律が興味深げに眉を上げる。
「どう動く?」
沈逸の唇が冷たく歪む。
「沈貴人を罠にかけ、動いた者を炙り出す」
「……大胆だな」
「それだけの価値がある」
沈逸は立ち上がり、厳律の肩を軽く叩いた。
「頼むぞ、厳律」
「お前の頼みなら仕方ねぇな」
厳律は苦笑しながら盃を置いた。
沈逸の計画が、後宮の均衡を崩す引き金となるのか——
それは、もう誰にも止められない。




