第五十三節 後宮の勢力図
第五十三節 後宮の勢力図
蘭雪は紫蘭殿を後にしながら、皇后の言葉を反芻した。
(妃嬪たちの動きを探れ……)
その言葉の真意は明白だった。皇后は、蘭雪が後宮の政治にどこまで関与できるかを試そうとしている。
蘭雪は深く息をつき、静心して考えを巡らせた。
(まずは、後宮の主要な妃嬪たちの関係を整理しなければ……)
皇后に次ぐ立場の貴妃は、沈貴人の登場により微妙な立場になっている。彼女の動向を探ることは不可欠だ。
また、近ごろ陛下の寵愛を受けつつある沈貴人——彼女自身は慎ましく振る舞っているが、彼女を取り巻く女官や妃嬪の中には、彼女を利用しようとする者もいるはず。
それに加え、沈貴人を快く思わない者も……。
(まずは沈貴人の周辺から情報を集めるべきね)
蘭雪は決意を固め、歩を進めた。
***
数日後、蘭雪は華麗殿を訪れた。沈貴人のいる宮であり、最近最も注目を集める場所である。
沈貴人は蘭雪を快く迎え入れた。
「蘭雪、よく来てくれましたね」
沈貴人は以前よりも落ち着いた表情をしている。陛下の寵愛を受けながらも、慎重に振る舞っていることが伺えた。
「沈貴人、お元気そうで何よりです」
蘭雪は微笑みながら、静かに周囲を観察した。華麗殿には、多くの女官たちが働いていたが、彼女たちの目は沈貴人と蘭雪に注がれている。
(やはり……沈貴人を巡る緊張は高まっている)
「沈貴人、最近何か気になることは?」
蘭雪の問いに、沈貴人は少し考えた後、ゆっくりと答えた。
「そうですね……。最近、私の周りの女官たちが、妙に神経質になっているように感じます」
「神経質……?」
「ええ。まるで、私に何かが起こるのを恐れているかのように」
蘭雪はその言葉に、胸の奥がざわつくのを感じた。
(これは……何かが動いている)
後宮には、沈黙の中にこそ、最も大きな陰謀が潜んでいる。
蘭雪は目を細め、沈貴人に静かに告げた。
「私も少し、調べてみましょう」
沈貴人は感謝の意を込めて頷いた。
その夜——蘭雪は、沈貴人の周囲で密かに蠢く影を追うことを決意する。
***
蘭雪は華麗殿を辞し、自らの宮へと戻る道すがら、沈貴人の言葉を反芻していた。
(沈貴人の周囲が神経質になっている……それは、ただの緊張ではない)
後宮において、誰かが妙な動きを見せるとき、それは必ず何かしらの意図がある。
(何者かが沈貴人に接触しようとしているか、あるいは……沈貴人に仕掛ける準備を進めている)
蘭雪は静かに息を吐き、すぐに宦官の明啓を呼び寄せた。
「明啓、沈貴人の周辺について、何か変わったことはない?」
明啓はしばし考えた後、低い声で答えた。
「華麗殿の女官たちの間で、密かに奇妙な噂が流れております」
「奇妙な噂?」
「はい。沈貴人の寝所に“誰かが忍び込んだ”という話です」
蘭雪の表情が険しくなる。
「誰が?」
「それが……はっきりとはしておりません。ただ、夜更けに人影を見た者がいると」
(もしそれが本当なら、これはただの偶然ではない)
蘭雪は考えを巡らせながら、次の指示を下した。
「沈貴人の身辺を、目立たぬように探って。特に、近ごろ新たに華麗殿へ仕えた者に注目して」
「かしこまりました」
明啓は一礼し、その場を去った。
***
翌日——
蘭雪が華麗殿を訪れると、沈貴人は微かに疲れた表情を見せていた。
「昨夜、また誰かが?」
蘭雪の問いに、沈貴人はゆっくりと頷いた。
「ええ……でも、私が気づく前に、その気配は消えました」
蘭雪は部屋の中を見回し、ふと目に留まったものに気づいた。
(机の上にある紙……それに、この香りは?)
紙には、誰かの筆跡で短い言葉が記されていた。
——沈貴人、お気をつけください——
沈貴人も、それを読んで不安そうな顔をした。
「誰かが私に警告を?」
蘭雪は慎重に紙を手に取り、じっと見つめた。
(これは、誰かが沈貴人を助けようとしているのか、それとも……)
沈貴人を守ろうとする者と、沈貴人を陥れようとする者——
その両方が、すでに動き始めている。
蘭雪はゆっくりと沈貴人を見つめ、決意を固めた。
「沈貴人、今夜は私もここに残るわ」
沈貴人は驚いたように目を見開いたが、すぐに安心したように微笑んだ。
「ありがとう、蘭雪……」
その夜——沈貴人の宮で、蘭雪は静かに何者かの訪れを待った。




