第五十節 沈逸の真意
第五十節 沈逸の真意
夜の帳が下り、紫禁城は静寂に包まれていた。蘭雪は沈逸との会話を反芻しながら、自室で灯火を見つめていた。
(沈逸の策に乗る……?)
彼が何を企んでいるのか、完全には読めない。しかし、確実なのは——彼はただの宦官ではないということ。
「均衡を崩す」と言った。つまり、後宮における何かの勢力図を変えようとしている。
(皇后に対抗しようとしているのか? それとも、別の目的が……?)
その時——。
「蘭雪様、お届けものです」
侍女の声に、蘭雪は振り向いた。
「届けもの?」
侍女が差し出したのは、小ぶりな木箱だった。
封を解くと、中には美しい翡翠の簪が一本収められていた。
「……これは?」
蘭雪は慎重に手に取り、細工を観察する。繊細な彫りが施され、まるで本物の葉が風に揺れるかのような精巧さだった。
(まさか……)
「誰から?」
侍女は少し困ったように答えた。
「匿名で届きました。宦官が持ってきましたが、お名前は名乗らず……」
蘭雪は目を伏せた。
(沈逸……?)
彼ならば、匿名で何かを送りつけることくらい造作もない。
(この簪に意味があるとすれば——何かの暗示か、それとも……警告?)
蘭雪は指先で簪を転がしながら、静かにため息をついた。
(沈逸は私にどう動いてほしいの?)
迷いの中で、蘭雪は簪をしっかりと握りしめた。
沈逸の真意を確かめるために——彼と、もう一度向き合う必要がある。
翌日、蘭雪は静かに紫蘭殿を訪れた。
沈逸が現れるなら、ここしかない——そう確信していた。
「蘭雪様、お一人で?」
侍女が驚いたように声をかけるが、蘭雪は微笑を浮かべながら首を振った。
「少し、風に当たりたくて」
紫蘭殿の庭は静かで、涼やかな風が吹いている。
そして——。
「おや、これはまた珍しいお客様だ」
聞き慣れた、どこか飄々とした声がした。
振り向くと、そこには沈逸が立っていた。
「……あなたが来るのを待っていました」
蘭雪は、袖の中で翡翠の簪を握りしめながら、静かに言った。
沈逸は軽く微笑み、近づいてくる。
「そうか。ならば、話が早い」
彼はいつもの余裕を纏いながらも、どこか鋭い目をしていた。
「あなたの意図を知りたいのです」
蘭雪は簪を取り出し、彼の前に差し出した。
「これはあなたが?」
沈逸は簪を見つめ、ふっと微笑んだ。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「どういう意味?」
「その簪は“選択”を示すものだ」
沈逸はゆっくりと歩きながら、低い声で続けた。
「蘭雪、君はすでに皇后と対峙した。そして沈貴人を救った」
「しかし、それはただの始まりにすぎない」
「後宮は均衡の上に成り立つ場所——だが、その均衡は崩れ始めている」
蘭雪は沈逸の言葉を静かに聞いていた。
「君が、どちらに立つか……それを決める時が来る」
「——簪を受け取るということは、私の側につくということだ」
沈逸の瞳は、まるで蘭雪の心を見透かすように深く、そして冷静だった。
蘭雪は息をのんだ。
(沈逸は、私を巻き込もうとしている……?)
「私に、何をさせようと?」
沈逸は微笑んだまま答えた。
「今は、まだ」
「だが、そう遠くないうちに……君にも理解できるはずだよ」
蘭雪は沈逸の言葉を噛み締めながら、簪を再び手の中に収めた。
この選択が、どんな未来を呼ぶのか——それは、まだ誰にも分からない。




