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第四十九節 沈貴人の選択

 第四十九節 沈貴人の選択


沈貴人は静かに帳の奥へと身を引いた。


(蘭雪……あなたが皇帝の寵を得ているのは、偶然ではないはず)


彼女は蘭雪を侮ってはいなかった。蘭雪は機転が利き、皇后の信頼も得ている。さらに、沈逸とも何らかのつながりがある。そんな相手を敵に回すのは愚策だ。


(ならば、私はどう動くべきか)


皇帝の寵愛を争うことは得策ではない。だが、蘭雪の影響力が増せば、いずれ彼女は後宮の中で一定の地位を築くだろう。その時、沈貴人が“どこに立っているか”が重要になる。


「梅香」


沈貴人は侍女を呼び、低く命じた。


「蘭雪様の動向を、静かに見守りなさい」


「見守る……というのは?」


「敵としてではなく、味方として」


梅香は目を見開いた。


「それは……つまり、蘭雪様と手を組むおつもりですか?」


「まだ分からない。ただ、彼女を敵に回すよりは、共にある道を探る方が賢明でしょう」


沈貴人はゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「蘭雪様は私と違い、皇后様にも近い。それならば、私は“その間”に立つ立場を目指す」


皇后と蘭雪の間に立つことで、両者の情報を得る。そして、どちらにも寄りすぎず、絶妙な立ち位置を維持することができれば、沈貴人は簡単には切り捨てられない。


「蘭雪様の行動を注意深く観察して。彼女がどこまで影響力を持とうとしているのかを見極めるのよ」


梅香は沈黙の後、小さく頷いた。


「……承知しました」


沈貴人は微笑を浮かべ、帳の向こうの夜空を見上げた。


(蘭雪……あなたの力を、私は見定めさせてもらうわ)


後宮の権力闘争は、静かに新たな局面を迎えようとしていた。


***


蘭雪は、長春宮へ戻る途中で足を止めた。


(沈貴人は、これからどう動くのか……)


彼女は沈貴人の表情を思い返していた。表向きは従順に見せながら、その瞳の奥には確かな計算があった。沈貴人が自らを皇后の側につけることを決意したのか、それとも別の道を模索しているのか——。


「蘭雪様、お疲れではありませんか?」


侍女の白蘭が心配そうに声をかける。蘭雪は微笑んで首を振った。


「少し考え事をしていただけよ」


「……最近、沈貴人様の周りが騒がしいようです。お気をつけくださいませ」


白蘭の言葉に、蘭雪は小さく頷いた。


(沈貴人だけではない。沈逸の動きも気になる……)


沈逸——蘭雪をたびたび助ける美しき宦官。その存在は、後宮において特異でありながら、確かな影響力を持っている。


(彼は、何を考えているのかしら)


蘭雪は長春宮の扉を開けると、そこに思いがけない人物が待っていた。


「遅かったな」


沈逸が、いつもの涼やかな笑みを浮かべて立っていた。


「沈逸……?」


「夜風に当たりたくてな。待たせた詫びに、茶でも淹れてくれないか?」


蘭雪は少し驚きながらも、彼の意図を探るように微笑んだ。


「珍しいわね。あなたが私を訪ねるなんて」


「たまにはいいだろう?」


沈逸は軽く肩をすくめながら、蘭雪をじっと見つめた。


「沈貴人とは、どうだった?」


核心を突くような問いに、蘭雪はほんのわずかに目を細めた。


「あなたは、彼女がどう動くと思う?」


「さあな。ただ、沈貴人は生きるために計算する女だ。誰にでも膝を折るが、決して全てを預けることはしない」


「ならば、私に敵意を持つことはない?」


沈逸は軽く笑い、蘭雪の髪にそっと触れた。


「お前次第だな」


その言葉の意味を、蘭雪は静かに噛み締めた。


(沈貴人がどの道を選ぼうとも、私は私の道を進むしかない)


蘭雪は決意を新たにし、沈逸の手をそっと払うと、穏やかに微笑んだ。


「お茶を淹れるわ。少し、付き合ってくれる?」


「望むところだ」


沈逸は楽しげに答え、二人の間に静かな夜が流れていった——。


湯気の立つ茶碗を前に、沈逸はゆったりと腰を下ろした。蘭雪が静かに茶を淹れる所作を眺めながら、彼は薄く笑みを浮かべている。


「沈貴人との話、楽しそうだったな」


沈逸が茶碗を手に取りながら、何気ない口調で言った。その瞳はどこか探るような光を帯びている。


蘭雪はその視線を受け止めつつ、慎重に答えた。


「楽しむ余裕はなかったわ。彼女もまた、この後宮で生き残るために懸命だから」


「そうだな」


沈逸は茶を一口含み、目を細めた。


「だが、彼女は“誰の側につくべきか”を決めかねているように見える」


「私の側につくべきかどうか?」


「あるいは、皇后の側につくか。それとも——自らの力で道を切り開くか、な」


沈逸は卓上を軽く指で叩いた。そのリズムはまるで何かを計算しているかのようだった。


「蘭雪、お前はどうする?」


唐突な問いだった。


蘭雪は少しの間、沈逸を見つめた。彼の真意を探るように。


「何のこと?」


「とぼけるな。お前もまた、選ばなければならない立場だ」


沈逸の声には珍しく鋭さが混じっていた。


「沈貴人が皇后の側につくなら、お前はどう動く? 皇后の側に立つか、それとも——」


「それとも?」


蘭雪はあえて続きを促した。


沈逸は微笑しながら、茶碗を置いた。


「それとも、俺の側につくか?」


その瞬間、静寂が降りた。


蘭雪は、沈逸の言葉の意味を慎重に考えた。


(沈逸の側? 彼はただの宦官ではない。後宮の影で動く策士……私を巻き込むつもり?)


「私に、それを選ぶ自由があるのかしら?」


蘭雪はあえて挑むように問い返した。


沈逸はくすりと笑い、蘭雪の顔を覗き込むように身を寄せた。


「お前は聡い。だからこそ、俺の提案を無視することはできないはずだ」


「……私に何をさせたいの?」


沈逸はわざとらしく肩をすくめた。


「俺はただ、お前の知恵を借りたいだけさ」


「それは、沈貴人に関すること?」


「それもある」


沈逸は茶をもう一口飲むと、ふっと笑った。


「だが、それだけではない。お前と俺、二人で動けば——この後宮の均衡を崩せる」


「……均衡を?」


蘭雪は微かに息をのんだ。


沈逸の言葉が何を意味するのか——それは、彼が単なる傍観者ではないことを示していた。


(彼は……何を企んでいるの?)


沈逸は茶碗を置き、蘭雪をまっすぐに見つめた。


「俺の策に乗るかどうか——決めるのはお前だ」


その夜、蘭雪の胸には新たな迷いが生まれた。


沈逸は味方か、それとも——新たな脅威か。


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