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 第四十八節 皇后の裁定

 第四十八節 皇后の裁定


沈貴人の決断から数日が経った。


皇后からの召喚はなく、後宮の空気は静かながらも不穏だった。


沈貴人のもとには、些細な嫌がらせが続いていた。侍女が届けるはずの品が紛失したり、膳に小さな異物が混ざっていたり——直接的な攻撃ではないが、皇后の側近たちが沈貴人の動向を見極めようとしているのは明らかだった。


(皇后様は……まだ私を見ておられるのね)


沈貴人は静かに扇を閉じると、侍女に命じた。


「紫蘭殿へ参ります」


皇后のもとへ、自ら赴く覚悟を決めたのだった。


***


紫蘭殿の庭に足を踏み入れると、そこにはすでに皇后が待っていた。


「沈貴人、ようこそ」


皇后はゆったりとした口調で言うが、その眼差しは冷静に沈貴人を測るようだった。


「お呼びがないので、不躾ながら参りました」


沈貴人は跪き、静かに頭を下げる。


「ふふ、あなたも大胆になったものね」


皇后は扇を優雅に揺らしながら、侍女に命じる。


「お茶を」


再び、沈貴人の前に一杯の茶が置かれた。


(また……?)


しかし、今回は前回と異なる。


皇后は穏やかに微笑んだまま、同じ茶を自らの杯にも注いだ。


「今回は、私も飲むわ」


沈貴人は一瞬だけ迷ったが、静かに杯を取り、口をつけた。


苦みのある蓮心の味が広がる。


(毒ではない……)


皇后は満足げに頷いた。


「沈貴人」


「はい」


「あなたは、私の側にはつかないのね」


沈貴人の指が扇を強く握る。


その言葉は、まるで——裁定のようだった。


「私は……」


選ぶべき言葉を探す。


「皇后様に背くつもりはございません」


「ですが、私は私の意志を貫きたく思います」


沈貴人の言葉に、皇后はしばし沈黙した。


やがて——ふっと微笑む。


「面白いわ」


沈貴人は驚いて顔を上げる。


皇后の瞳には、冷たい光と共に、わずかな興味が宿っていた。


「あなたがどこまで生き延びるか——少し見てみたくなったわ」


それは、決して庇護を意味するものではない。


皇后は沈貴人を試すつもりなのだ。


沈貴人は深く頭を下げた。


(……私は、私自身の道を行く)


その決意を胸に、紫蘭殿を後にするのだった。

 




紫蘭殿を後にし、沈貴人は静かに長い回廊を歩いていた。


皇后は彼女を完全に敵とみなしたわけではなかったが、味方につけることも放棄した。その意味するところは一つ。


(私は自分の力だけで、この後宮を生き抜かなければならない)


覚悟を決めたものの、胸にわずかな不安が残る。皇后の寵愛を受けずに陛下の寵を独占し続けることが、どれほど困難なことかは誰よりも理解していた。


「深刻そうな顔をしているな」


沈貴人が顔を上げると、そこには沈逸の姿があった。


「沈公子……」


沈逸は軽く眉を上げ、涼やかな笑みを浮かべる。


「皇后様との話し合いは、うまくいったのか?」


沈貴人は一瞬だけ迷ったが、正直に答えた。


「私の意志を貫くと申し上げました」


「ほう……」


沈逸は腕を組み、しばし考え込むように視線を遠くへ向ける。


「それで、皇后様はなんと?」


「……“どこまで生き延びるか見てみたい”と」


その言葉を聞いた沈逸は、ふっと笑みを漏らした。


「なるほどな。つまり、皇后様はお前を泳がせるつもりというわけだ」


「泳がせる……?」


「すぐに潰すほどの価値はないが、もし面白い動きを見せれば、それを利用する気でいるのさ」


沈貴人は思わず息をのんだ。


沈逸の言葉は、皇后の真意を鋭く突いているように思えた。


「では、私はどうすべきでしょうか」


沈逸は微かに笑い、沈貴人の顎に指を添えて、軽く上を向かせた。


「お前の魅力を、もっと賢く使え」


「……?」


「皇后様は“見てみたい”と言った。ならば、その期待を超えてみせろ」


沈貴人は沈逸の言葉を噛み締めるように考えた。


皇后は確かに彼女を見定めている。


ならば——


(私が、後宮において必要不可欠な存在になればいい)


沈逸は満足げに微笑み、沈貴人の肩を軽く叩いた。


「お前ならできるさ。だが——」


沈逸の声が少し低くなる。


「皇后様だけではない。陛下も、お前の動きを見ているぞ」


沈貴人はその意味を問いただそうとしたが、沈逸はすでに踵を返していた。


「沈公子!」


振り返らずに沈逸は言う。


「焦るな、沈貴人。女は、一歩引いたときにこそ男を引き寄せるものだ」


沈貴人は、その言葉の意味を噛み締めながら、ゆっくりと拳を握りしめた。


(私の戦いは、ここからが本番——)


***


沈逸の言葉が胸に残るまま、沈貴人は静かに紫蘭殿を後にした。


(皇后様は私を泳がせるつもり……ならば、私はどう動くべきか)


焦りを表に出してはならない。だが、何もしなければいずれ見捨てられる。皇后にとって“利用価値がある”と示せるほどの力を持たねばならない——そうでなければ、この後宮で生き残ることはできない。


彼女は自室に戻ると、すぐに侍女の梅香を呼んだ。


「梅香、すぐに情報を集めて」


「……どのような情報を?」


沈貴人は深く考え、静かに口を開く。


「最近、後宮内で目立って寵を受けている者は誰か。そして、皇后様が特に気にかけている妃嬪も調べなさい」


梅香は驚いたように目を見開いた。


「それは……皇后様に対抗なさるということでしょうか?」


「違うわ。ただ、皇后様の意向を正しく理解するためよ」


沈貴人は穏やかに微笑んだが、その瞳には静かな決意が宿っていた。


(皇后様が私を見極めようとしているならば、私もまた皇后様を見極める)


後宮において、権力を握る者は“相手の意図を読む者”である。


沈貴人はそう決めると、長い髪を静かに撫で、次の一手を考え始めた。


***


翌日——


梅香が戻ってきたのは、夜が更ける頃だった。


「お待たせいたしました」


「どうだった?」


「最近、陛下が特に寵愛を注がれているのは——蘭雪様です」


沈貴人の指が、ほんのわずかに震えた。


(やはり……)


蘭雪は賢く、機転の利く女性だ。そして、皇后との関係も良好だと聞く。もし蘭雪がこのまま陛下の寵を独占し続けるなら、彼女は確実に皇后の強力な味方となるだろう。


沈貴人は静かに目を閉じた。


(ならば——私は、どう立ち回るべきか)


沈逸の言葉が脳裏に蘇る。


「女は、一歩引いたときにこそ男を引き寄せるものだ」


沈貴人は唇を噛みしめ、決断した。


(私は、前には出ない。だが、決して影にもならない——)


沈貴人の目が、夜の闇の中で静かに輝いた。



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