第四十七節 沈貴人の決断
第四十七節 沈貴人の決断
蘭雪は紫蘭殿を辞した後、その足で沈貴人の宮へ向かった。
皇后の密命を受けた以上、沈貴人に何らかの試練が与えられることは避けられない。彼女がどのように対処するのかを見極めねばならなかった。
沈貴人の宮には緊張した空気が漂っていた。蘭雪が到着すると、宮女たちが慌ただしく立ち働きながらも、どこか不安げな表情を浮かべている。
「蘭雪様……」
宮女が小声で囁く。
「沈貴人様は、今……」
「中に通してちょうだい」
蘭雪は静かに言い、奥の間へと足を踏み入れた。
沈貴人は鏡台の前に座り、ぼんやりと己の姿を映していた。
「沈貴人」
蘭雪の声に、沈貴人はゆっくりと振り向く。
「……蘭雪」
彼女の顔には迷いが見えた。
「皇后様から……何か言われたのですね?」
沈貴人は小さく頷いた。
「『忠誠を示す機会を与える』と……」
蘭雪は沈黙したまま、彼女の言葉を待った。
「そのために……私は、ある決断をしなければならない」
沈貴人は苦しげに息を吐いた。
「皇后様は、私に“ある者”の秘密を暴くよう仰せです」
「——誰の秘密?」
沈貴人は目を伏せた後、そっと唇を開いた。
「……沈逸様の」
蘭雪の表情が僅かに変わる。
沈逸。蘭雪が後宮の中で唯一、信頼に足ると感じている人物。その彼の秘密を探るようにと、皇后が沈貴人に命じたのか。
「……沈貴人、それに従うつもりですか?」
沈貴人は答えなかった。
しかし、その沈黙が彼女の葛藤を物語っていた。
沈逸を陥れれば、皇后の信頼を得られる。だが、それが本当に正しい選択なのか——沈貴人自身、まだ答えを見つけられずにいた。
蘭雪は静かに彼女の隣に座り、そっと囁いた。
「沈貴人、あなたが決めることです」
沈貴人の指が微かに震えた。
「私は……私はどうすれば……」
そのとき——
「答えは簡単だ」
低く柔らかな声が、室内に響いた。
二人が顔を上げると、帳の向こうに、沈逸の姿があった。
彼は静かに微笑みながら、二人を見つめていた——。
沈逸はゆったりと歩みを進め、沈貴人と蘭雪の前に立った。
「沈逸様……」
沈貴人の声には明らかな動揺が混じっていた。
彼はそんな彼女を見つめ、穏やかな笑みを浮かべたまま言う。
「どうやら、私の秘密を暴くよう皇后様から命じられたようですね」
沈貴人は息をのんだ。
彼の口ぶりから察するに、すでにすべてを知っていたのだろう。
沈逸は室内をゆっくりと見回し、やがて蘭雪に視線を移した。
「……あなたは、どう思いますか?」
蘭雪は目を細め、慎重に言葉を選んだ。
「沈貴人がどう選ぶか、それは彼女自身の問題です」
沈逸は興味深げに片眉を上げた。
「なるほど。では、沈貴人が皇后様の命に従い、私を陥れる選択をしたら?」
沈貴人ははっと顔を上げた。
「そ、それは……!」
「構いませんよ」
沈逸はさらりと言った。
「それが沈貴人の生き残る道なら、そうすればいい」
沈貴人の表情が凍りつく。
沈逸はまるで動揺することなく、微笑を浮かべたまま彼女を見つめていた。
「ただし——その選択をする前に、一つだけ覚えておいてほしい」
彼はゆっくりと歩み寄り、沈貴人のすぐ傍に立つ。
「私を陥れるということは、皇后様の信頼を得ると同時に、もう一つの勢力を敵に回すことを意味する」
沈貴人の瞳が揺れた。
「……もう一つの勢力?」
「そう」
沈逸の微笑が僅かに深まる。
「この後宮には、皇后様だけが力を持っているわけではない」
沈貴人は息を詰まらせた。
(そうだ……皇后様の影響力は大きいが、それだけではない……)
沈逸はさらに続けた。
「選ぶのはあなたです、沈貴人。皇后様の信頼を取るか、あるいは——」
沈貴人は唇を噛みしめた。
沈逸の言葉が、静かに彼女の心を揺さぶる。
「……私は」
その言葉が紡がれる前に——
「おや、何やら興味深い話をしていますね」
不意に、帳の外から新たな声が響いた。
沈逸が振り向く。
そこに立っていたのは——
皇后の側近、李昭容だった。
彼女はゆったりと微笑みながら、沈貴人を見つめた。
「沈貴人様、そろそろご決断を」
沈貴人の肩が強張る。
(私は……どうするべきなの……!?)
蘭雪は沈貴人の震える手をそっと握り、静かに言った。
「あなたの未来は、あなたが選ぶのです」
沈貴人は、ぎゅっと拳を握りしめた——。
沈貴人の指先が微かに震えていた。
李昭容の視線が、鋭く彼女を射抜く。
皇后の側近である彼女は、沈貴人の返答を待っていた。
沈逸もまた、穏やかな笑みを崩さぬまま、彼女の答えを静かに見守っている。
——どちらを選ぶべきなのか。
皇后の信頼を得るために沈逸を陥れるのか、それとも……。
沈貴人は息を整え、ゆっくりと顔を上げた。
「私は……」
一瞬の沈黙。
蘭雪が沈貴人の肩にそっと手を置く。
その温もりが、彼女の迷いを吹き飛ばした。
「私は、誰の駒にもなりたくありません」
李昭容の眉がわずかに動く。
「それは……どういう意味ですか?」
沈貴人は唇を引き結び、はっきりと告げた。
「皇后様は、私を試されました。沈逸様を陥れることで、私の忠誠を示せと」
「ですが——私は誰かに利用されるために、ここにいるのではありません」
「私は、私自身の未来を選びます」
その言葉に、李昭容の瞳がわずかに細まる。
「……それは、皇后様への反逆と見なされても?」
「私は皇后様を裏切るつもりはありません」
沈貴人は毅然と言い切る。
「ですが、沈逸様を陥れることも、できません」
沈逸は微かに目を細め、満足げに頷いた。
李昭容は沈貴人をしばし見つめていたが、やがて冷ややかに笑った。
「なるほど……」
「そのお考え、しかと皇后様にお伝えします」
彼女は静かに踵を返し、部屋を後にした。
沈貴人はその背中を見送りながら、無意識に拳を握りしめる。
(これで……私は、皇后様の不興を買ったのかもしれない)
不安が胸をよぎる。
だが——それ以上に、自分の意志を貫けたことが誇らしかった。
沈逸はふっと微笑み、沈貴人の肩に軽く手を置いた。
「よく言いましたね」
「……沈逸様」
「これで、あなたは少しだけ“自由”に近づいた」
彼はそう言い残し、ゆっくりと歩き出す。
蘭雪もまた、沈貴人にそっと微笑んだ。
「あなたはもう、誰かの影ではありません」
沈貴人は胸の奥に熱いものを感じながら、静かに頷いた。
——後宮の波乱は、まだ始まったばかりだった。




