第四十六節 沈貴人の迷い
第四十六節 沈貴人の迷い
紫蘭殿を出ると、冷たい風が頬をかすめた。冬の名残を感じさせる冷気が、緊張していた身体を少しずつ解きほぐしていく。
沈貴人は無言のまま蘭雪と並んで歩いていた。その表情は硬く、目に宿る迷いは隠しきれていない。
やがて人目のない場所まで来ると、彼女は突然立ち止まり、小さく震える声で口を開いた。
「……蘭雪、私は……私は間違っていたのでしょうか?」
蘭雪は静かに彼女を見つめる。
「何を、間違ったと言うの?」
沈貴人は両手をぎゅっと握りしめた。
「皇后様に忠誠を示さねばならないと……そう思っていたのです。私は陛下の寵愛を受けたとはいえ、それがどれほど続くか分からない。後宮で生き残るには、陛下だけでなく、皇后様の庇護も必要だと……」
彼女の声には焦燥が滲んでいた。
「だから、私は皇后様の試練を受け入れるつもりでした。けれど……蘭雪、あなたはそれを止めた。あの茶を飲むことは、やはり危険だったの?」
蘭雪はそっとため息をつく。
「毒ではなかったわ。でも、決して無害ではなかった」
沈貴人の表情が強張る。
「……どういうこと?」
蘭雪はしばらく考えた後、言葉を選びながら答えた。
「あの茶には、皇后様の意思が込められていた。それを飲めば、あなたは皇后様の庇護を受けることになったでしょう。でも、同時に——」
「——私は、陛下から遠ざけられることになった?」
沈貴人ははっとしたように呟いた。蘭雪は黙って頷く。
「皇后様があなたをどう扱うつもりだったのか、まだはっきりとは分からない。でも、一つだけ確かなことがあるわ」
蘭雪は沈貴人の手をそっと握りしめる。
「あなたの未来は、あなた自身が選ぶもの。他人の思惑に流されてはいけない」
沈貴人の瞳が揺れる。
「……私は、どうすれば?」
蘭雪は優しく微笑んだ。
「あなたが望む未来を見据えなさい。それが何であれ、私はあなたを助けるわ」
沈貴人はその言葉にしばし沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう、蘭雪」
その表情には、まだ迷いが残っていた。しかし、先ほどまでの焦燥とは違う、確かな決意の色も見えていた。
(沈貴人……あなたがどんな道を選ぶにせよ、私は見届ける)
蘭雪はそっと空を仰いだ。
沈貴人との話を終え、蘭雪が自室へ戻ろうとしたとき、不意に風が吹き抜けた。冷たい空気が頬をかすめ、微かな薬草の香りが漂う。
(……この香りは?)
足を止めた瞬間、背後から軽やかな足音が近づいてきた。
「相変わらず、よく気がつくな」
その声に、蘭雪はゆっくりと振り返る。
「沈逸……」
月光の下、沈逸が微笑を浮かべて立っていた。黒い衣が夜の闇と溶け合い、その整った容貌が一層際立って見える。
「ここで待っていたの?」
「待っていたというより……お前のことが気になってな」
沈逸はわずかに目を細める。
「沈貴人の件だろう?」
蘭雪は驚きつつも、小さく息をついた。
「やはり、あなたも気にしていたのね」
沈逸は腕を組み、低い声で続けた。
「沈貴人は、思った以上に迷っている。皇后の庇護を受けるべきか、それとも陛下の寵愛に全てを賭けるべきか——」
彼は軽く扇を広げ、夜風に乗せるように呟く。
「だが、どちらを選んでも、後宮の渦に飲み込まれることに変わりはない」
「……だからこそ、私は彼女に考える時間を与えたかったの」
蘭雪の言葉に、沈逸はくすりと笑う。
「お前らしいな」
彼は歩み寄ると、ふっと表情を引き締めた。
「蘭雪、一つ忠告しておこう」
「何?」
「沈貴人を守るつもりなら、お前自身の立場をもっと考えろ」
沈逸の目が鋭くなる。
「お前は今、単なる才人ではなくなりつつある。皇后や他の妃たちも、お前の動きを警戒し始めている」
蘭雪は沈黙した。自分が少しずつ、後宮の策略の中心へと引き寄せられていることは、痛いほど理解していた。
「……それでも、私は彼女を見捨てたくない」
沈逸はしばし蘭雪を見つめ、やがて微かに微笑んだ。
「……ならば、せいぜい気をつけることだな」
彼は軽く扇を閉じると、ふわりと身を翻す。
「いずれ、お前にも選択を迫られる時が来る。その時——」
沈逸はちらりと蘭雪を振り返り、意味深に微笑んだ。
「お前は、どう動く?」
蘭雪は沈逸の背中を見送りながら、静かに目を閉じた。
(私は……どう動く?)
後宮の闇は、ますます深まっていく——。
***
翌朝、蘭雪が宮女たちの手で髪を整えていたとき、紫蘭殿からの使いが訪れた。
「蘭雪様、皇后様がお召しでございます」
蘭雪は一瞬、指先を止めた。
(……やはり、動きがあった)
沈貴人の件が落ち着いたかと思われた矢先、皇后がこうも早く呼び出すのは、何かしらの意図があるはずだ。
「すぐに参ります」
落ち着いた声で答え、蘭雪は立ち上がった。
紫蘭殿へと足を進めると、庭には朝の冷たい空気が漂っていた。花々は朝露に濡れ、静寂の中に優雅な美しさを宿している。しかし、それとは対照的に、蘭雪の心には警戒が渦巻いていた。
(皇后様は、私に何を求めるのか——)
侍女に案内され、蘭雪は帳の奥へと通された。
「蘭雪、よく来ましたね」
皇后は変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。その優雅な所作の奥に隠された真意を見極めようと、蘭雪は静かに跪く。
「お召しいただき、光栄に存じます」
皇后はそばの机から小さな香炉を手に取り、ゆっくりと香を焚いた。ほのかに甘く、それでいてどこか鋭い香りが広がる。
「沈貴人の件、見事な采配でしたね」
「恐れ入ります」
「ふふ……あなたが彼女を庇ったのは、慈しみゆえ? それとも、より大きな策の一環かしら」
皇后の言葉に、蘭雪は慎重に答えた。
「沈貴人は、まだ後宮の道を知らぬ身。いずれにせよ、判断するには早すぎます」
皇后はその言葉に満足げに微笑んだ。
「あなたの冷静さには感心します。だからこそ、あなたに任せたいことがあるの」
蘭雪の指先がわずかに強張る。
「……どのようなことでしょうか」
皇后はそっと香炉を置き、蘭雪をじっと見つめた。
「沈貴人を、再び試しなさい」
「——!」
蘭雪は驚きを隠しながら、皇后の意図を探った。
「沈貴人は、陛下の寵愛を受けながらも、まだ覚悟が定まっていない。私は彼女がどこまで忠誠を誓うかを見極めたいの」
「……それはつまり、彼女に“選択”を迫るということですね?」
皇后は優雅に微笑んだ。
「さすがね。ええ、沈貴人にある試練を与えます。あなたはそれを見届け、しかるべき結果を私に報せなさい」
蘭雪は静かに息を整えた。
(沈貴人を再び試す……それが皇后様の意図? それとも、何か別の狙いが?)
皇后の言葉は甘やかに響くが、その裏に潜むものは決して単純なものではない。
「……承知いたしました」
蘭雪は深く頭を下げた。
しかし、この密命を引き受けることで、自らもまた、皇后の策略に深く巻き込まれることになるのを感じずにはいられなかった——。




