第四十五節 仕組まれた試練
第四十五節 仕組まれた試練
翌朝、蘭雪は侍女の春燕と共に静心殿で文を読んでいた。朝の陽光が障子越しに差し込み、心地よい静寂が広がっている。しかし、その平穏は突然破られた。
「蘭雪様!」
慌ただしい足音と共に、小太監の李安が駆け込んできた。
「どうしたの?」
李安は息を整える間もなく、焦った様子で言った。
「沈貴人様が——沈貴人様が、皇后様のご不興を買い、罰を受けることになりました!」
蘭雪の表情が凍りついた。
「何ですって?」
春燕も驚き、思わず声を上げた。
「昨夜、沈貴人様が皇后様の御前で無礼を働いたとされ、今日中に紫蘭殿へ呼び出されるとのことです!」
(そんなはずはない……)
沈貴人は慎重な性格であり、軽率な行動を取るとは考えにくい。それに、昨日の茶の件を考えれば、皇后が沈貴人を意図的に追い詰めようとしているのは明らかだった。
「これは……罠ね」
蘭雪は低く呟いた。
春燕が不安げに顔を上げる。
「どうなさいますか?」
蘭雪は静かに立ち上がり、着物の袖を整えた。
「沈貴人を見捨てるわけにはいかないわ」
彼女の目には、すでに覚悟の色が宿っていた。
「紫蘭殿へ向かうわ」
***
紫蘭殿——
皇后は帳の奥に座し、その前には沈貴人が跪いていた。
「沈貴人、あなたは昨夜、私への忠誠を誓うと約束したはず。それなのに、なぜ今になってそれを翻すの?」
沈貴人は唇を噛みしめ、俯いた。
「……決して、そのようなつもりはございません」
皇后は微笑みながら、扇をゆるりと広げる。
「ならば、それを証明なさい」
その瞬間、侍女が銀の盆を持って進み出た。盆の上には、昨日のものと同じ——例のお茶が置かれていた。
「この茶を飲めば、あなたの忠誠を信じましょう」
沈貴人の手がわずかに震える。
(これは、昨日と同じ……? それとも、さらに何か仕込まれているの?)
沈貴人が茶碗に手を伸ばそうとした、その時——
「お待ちください!」
帳の外から、蘭雪の声が響いた。
沈貴人が驚いて顔を上げる。皇后もまた、興味深げに扇を閉じた。
「まぁ……またあなたですか」
蘭雪は迷いなく沈貴人の前に進み出た。そして、皇后をまっすぐに見据えながら言い放つ。
「皇后様、その茶を私が代わりに飲みます」
沈貴人が息を呑む。皇后は、僅かに目を細めた。
「……ほう?」
室内に張り詰めた空気が漂う。蘭雪の言葉に、沈貴人は驚き、皇后は微笑を深めた。
「あなたが代わりに飲む? 面白いことを言うのね、蘭雪」
皇后は扇をゆるりと閉じ、その瞳に鋭い光を宿らせた。
「ですが、その茶は沈貴人に課せられた試練。あなたが飲んだからといって、彼女の忠誠が証明されるわけではありませんよ」
蘭雪は皇后の言葉に一切ひるまず、毅然とした態度で応じた。
「確かに、沈貴人の忠誠は彼女自身が示すべきものです。しかし、それは恐怖や強制によってではなく、彼女の意志で決めるべきこと」
蘭雪はゆっくりと盆の上の茶碗を手に取り、薄く微笑んだ。
「もしこの茶がただの試練であるならば、誰が飲んでも同じはず。それとも、この茶には何か問題があるとお認めになりますか?」
皇后の目がわずかに細まる。室内にいた侍女たちも、息を詰めたように沈黙する。
「……ふふ、なるほど」
皇后は再び扇を開き、優雅に笑った。
「あなたの口の上手さには感心します。では、飲みなさい」
沈貴人が息を呑んだ。
「蘭雪……!」
しかし、蘭雪は一切迷わず、茶を口へと運んだ。その動きはあまりにも自然で、まるで疑いを持っていないかのようだった。
(皇后様がこの場で私を害することはない。これは試練——ならば、それを乗り越えるしかない)
茶は僅かに苦く、そして、舌の奥にかすかな渋みを残す。
(……何かが混ざっている。でも、すぐに害をなすものではなさそう)
蘭雪は静かに茶を飲み干し、茶碗をそっと卓に置いた。そして、皇后をまっすぐに見つめる。
「これで、よろしいですか?」
皇后はしばらく蘭雪を見つめていたが、やがて微笑を深めた。
「ええ、結構よ。やはりあなたは期待を裏切らないわね」
皇后は立ち上がり、侍女に命じて盆を下げさせた。
「沈貴人、あなたはもう下がってよいわ」
沈貴人は驚きながらも、蘭雪に支えられて立ち上がる。
「……皇后様」
皇后は沈貴人を一瞥し、微かに微笑んだ。
「あなたの忠誠は、もう少し見極めることにするわ」
蘭雪は沈貴人を連れて紫蘭殿を後にした。背後で皇后の視線を感じながら、彼女は心の中で静かに考える。
(この試練の本当の意味……それを見極めなければ)
後宮の陰謀は、まだ終わらない——。




