第四十四節 蘭雪と沈逸の再会
第四十四節 蘭雪と沈逸の再会
夜の帳が降りる頃、蘭雪は静かに筆を置いた。燭台の火が揺らぎ、薄暗い光が部屋の隅を照らす。
「……これでよし」
今日の出来事を整理しながら、彼女は静かに息を吐いた。沈貴人を皇后の試練から救い出したが、それが吉と出るか凶と出るかは、まだ分からない。
(皇后様の狙いは何だったのか……)
沈貴人を試すためのものだったのか、それとも、もっと別の意味があったのか。蘭雪は筆の先を見つめながら思案する。
そのとき——。
「やけに真剣な顔をしているな」
突然、低く落ち着いた声が響いた。
蘭雪は驚きつつも表情を崩さず、静かに扉の方を向いた。
「……また忍び込んだの?」
そこには、壁にもたれるように立つ沈逸の姿があった。
「忍び込んだわけじゃない。たまたま通りかかっただけだ」
「この時間に?」
「そういうこともあるさ」
沈逸は軽く笑いながら、部屋に足を踏み入れる。その仕草はまるで自分の居場所であるかのように自然だった。
「それで、お前は何を考えていた?」
蘭雪は沈逸を見つめ、一瞬の間を置いた後、静かに答えた。
「沈貴人のこと……そして、皇后様の意図」
「ふん……やっぱりな」
沈逸は机のそばに歩み寄り、燭台の火を指で揺らしながら言った。
「お前のことだから、何か仕掛けるんじゃないかと思っていたが、案の定だな」
「仕掛ける、とは?」
「皇后に正面から対抗するのは、あまり賢い手じゃない。だが、お前はそれを承知の上で動いたんだろう?」
沈逸の目が、鋭く蘭雪を見つめる。
蘭雪は小さく微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、沈貴人を守りたかっただけよ」
「……それだけか?」
沈逸の言葉に、蘭雪はふと目を細める。
「何が言いたいの?」
沈逸は短く息をつき、腕を組んだ。
「お前は、単に沈貴人を守るために動いたわけじゃない。皇后の試練に介入し、皇后自身にお前の存在を強く印象付けた……つまり、皇后との駆け引きを始めたということだ」
蘭雪は沈逸の言葉を受け止めながら、静かに答えた。
「駆け引きをしなければ、生き残れないのが後宮でしょう?」
「確かにな」
沈逸は小さく笑った。そして、蘭雪のそばに寄ると、軽く肩を叩いた。
「まあ、お前らしいやり方だ。……だが、気をつけろよ」
「何に?」
沈逸は、ふと目を伏せ、言葉を選ぶようにした。
「お前は、あまりにも真っ直ぐすぎる」
その言葉に、蘭雪は一瞬、息を呑んだ。
「後宮では、真っ直ぐな者ほど折れやすい」
沈逸の声は低く、それでいて優しかった。
蘭雪はその言葉を胸に刻みながら、小さく微笑んだ。
「……気をつけるわ」
沈逸はそれを聞くと、満足したように微笑み、部屋の奥を見回した。
「しかし、お前の部屋は相変わらず質素だな。もう少し贅沢をしてもいいんじゃないか?」
「必要なものは揃っているわ」
「ふん……まあ、お前らしい」
沈逸はそう言うと、軽く手を振って部屋を後にした。
蘭雪は彼の背中を見送りながら、そっと拳を握る。
(私は、折れない——)
その決意を胸に、蘭雪は再び机に向かい、静かに筆を取った。
***
夜が更け、紫蘭殿の奥深く、皇后は静かに帳の奥に座していた。
侍女が香を焚くと、ほのかに沈香の香りが漂う。
「蘭雪……」
皇后は扇をゆるりと開き、低く呟いた。
「ふふ……予想以上に動く子ですね」
皇后の前には、一人の女官がひざまずいていた。その女官は沈貴人付きの者であり、今日の出来事を余すことなく皇后に報告していた。
「——つまり、蘭雪は沈貴人の前に立ち、彼女にお茶を飲ませまいとしたのですね?」
「はっ、確かにその通りにございます」
女官は畏れながらも、しっかりとした口調で答えた。
皇后は微笑みながら、扇を閉じた。
「なるほど。あの子がこれほどまでに沈貴人を庇うとは……」
皇后の目がわずかに細まる。
「沈貴人が私の側に引き寄せられれば、蘭雪も巻き込まれる。それを見越しての行動でしょうね」
皇后はゆっくりと立ち上がると、帳の向こうを見やった。
「蘭雪は、皇帝陛下の寵愛を受ける立場ではない。彼女が後宮で生き残るためには、何らかの後ろ盾が必要となる……」
侍女が静かに問いかける。
「皇后様、蘭雪をどうなさるおつもりで?」
皇后は小さく微笑む。
「焦ることはありませんわ。蘭雪はまだ若い。だが、あの聡明さと胆力——いずれ、厄介な存在になることは確実」
皇后は再び座り、長い指で机を軽く叩いた。
「……ならば、使えるかどうかを試してみるのも、一興でしょう」
侍女が静かに頷いた。
「ご命令を」
皇后はゆっくりと扇を広げ、意味深に笑った。
「蘭雪に、少しばかり“試練”を与えてあげましょう」




