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 第四十三節 沈貴人の返答

 第四十三節 沈貴人の返答


紫蘭殿の庭には、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。沈貴人は、皇后のもとへ向かう道を静かに歩いていた。


「皇后様は、私がどう出るかを見ている……」


沈逸の言葉を思い返しながら、沈貴人は深く息をついた。


「けれど、この試練を拒むのではなく、私の意志を示さなければならない」


そう考えながら、彼女は紫蘭殿の帳の前で足を止めた。


「沈貴人にございます」


「お入りなさい」


皇后の落ち着いた声が中から響く。


沈貴人は一礼し、静かに帳をくぐった。


皇后はいつものように優雅に座していた。その視線が、沈貴人の顔を一瞥する。


「……昨夜の薬湯、口にしたのかしら?」


沈貴人は、微かに微笑んだ。


「はい、皇后様のお心遣い、ありがたく頂戴いたしました」


皇后の瞳が、沈貴人の表情を探るように揺れる。


「それは何よりですわ」


沈貴人は、袖の中に隠していた白絹を取り出し、そっと机の上に置いた。


皇后の目が、一瞬、僅かに細まる。


「それは?」


「昨夜の薬湯をいただいた後、気分がとても落ち着きましたので、その心地よさを皇后様にお伝えしようと、筆をとりました」


皇后は白絹を手に取り、広げた。そこには、流麗な筆致で一つの詩が記されていた。


「朝霞の色 映ゆる花影

 一盞の香に 秘めし想い」


皇后の指先が、ほんの僅かに動いた。


(この詩の意味……私の意図を理解しているということか)


沈貴人は微笑を保ったまま、皇后を見つめる。


「皇后様のお茶が、私の心を鎮めてくれました」


皇后は扇を閉じ、ゆっくりと笑みを浮かべた。


「それは良かったわ」


沈貴人は再び深く一礼する。


「今後とも、皇后様のお導きに従い、精進してまいります」


皇后は沈貴人の姿をしばらく見つめた後、再び白絹に視線を落とし、静かに微笑んだ。


「ええ。あなたの行く先を見届けましょう」


沈貴人は丁寧に辞し、帳の外へと出た。


紫蘭殿を出た瞬間、ふっと風が吹き抜ける。


沈逸が庭の片隅で待っていた。


「やれやれ、お前は本当に抜け目がないな」


沈貴人は小さく微笑んだ。


「皇后様が試すなら、私も答えるだけです」


沈逸は腕を組み、沈貴人をじっと見つめる。


「だが、これで終わりではないぞ」


「ええ、わかっています」


沈貴人の瞳には、もはや迷いはなかった。


この後宮で生きるためには、ただ守られるだけではいけない。自らの意志を持ち、戦わねばならないのだ。


——沈貴人は、ついに皇后の試練を乗り越えた。


だが、この先に待つのはさらなる波乱か、それとも——。


***



沈貴人が紫蘭殿を後にし、静かに歩を進めていく。庭に咲く梅の香りが、ふと彼女の心を和らげた。


しかし、背後からの気配を感じ、彼女は足を止めた。


「——お前らしくないな」


低く落ち着いた声が、静寂を破る。


振り向けば、沈逸が立っていた。


「沈逸様……」


彼は腕を組み、彼女を見つめている。その表情には、どこか探るような色があった。


「さっきのやり取り、見事だった。だが、お前が皇后にあれほどまでに従順な姿勢を見せるとはな」


沈貴人は微かに微笑んだ。


「従ったのではありません。示したのです。私が何を選ぶか、どう動くかを」


沈逸の目が細められる。


「なるほどな……。だが、それは諸刃の剣だ。皇后に信用されたと思っても、次にどんな試練が待つかはわからないぞ」


「ええ、承知しています」


沈貴人は迷いのない眼差しで沈逸を見つめる。


「だからこそ、私は私の道を進むのです」


沈逸はしばらく沈黙し、やがて小さく笑った。


「お前も、後宮の女らしくなってきたな」


沈貴人は軽く肩をすくめた。


「この後宮で生き残るためには、それが必要でしょう?」


沈逸は、そんな彼女の表情を見つめたまま、しばらく考え込むように目を細める。そして、ふと顔を上げた。


「……蘭雪に、何か言われたか?」


沈貴人はわずかに驚いたが、すぐに表情を整えた。


「いいえ、特には。ただ、彼女の言葉が私に考える機会をくれたのは確かです」


「ふん……。あいつは相変わらず、余計なことをするな」


沈逸はそう言いながらも、どこか楽しげな笑みを浮かべた。


沈貴人は彼の表情を見つめながら、ふと思った。


(沈逸様は、蘭雪様をどう見ているのか……)


沈逸が蘭雪の名を口にするとき、そこには軽やかさと同時に、どこか特別な響きがある。それが何を意味するのか、沈貴人にはまだ分からなかった。


沈逸は再び腕を組み、静かに言った。


「お前が本気なら、俺もそれに応じるだけだ。だが、もし道を誤れば——」


沈貴人は軽く笑みを浮かべる。


「そのときは、沈逸様が助けてくださるのでしょう?」


沈逸は一瞬驚いたように沈貴人を見たが、すぐに苦笑した。


「……図太くなったな、沈貴人」


「そうでしょうか?」


「まあいい。お前がどう動くにせよ、俺には俺の役目がある」


沈逸はそう言うと、踵を返した。


沈貴人は、その背中を見送りながら、小さく息をつく。


(沈逸様……あなたの「役目」とは一体?)


この後宮には、それぞれの思惑が交錯している。


沈逸の決断が、彼女の未来にどう影響を及ぼすのか——まだ誰にもわからなかった。





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