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第四十一節 沈貴人の決意

 第四十一節 沈貴人の決意


蘭雪は紫蘭殿を後にし、夜の回廊を急いでいた。手のひらには、沈逸から渡された小さな紙包みがある。


(これを沈貴人に渡さなければ——)


彼女が向かったのは、沈貴人の住まう翡翠軒。


扉の前に立つと、控えていた侍女が驚いたように目を見開いた。


「蘭雪様……このような遅い時間に?」


「沈貴人に急ぎ伝えたいことがあります。取り次いでください」


侍女は一瞬ためらったが、蘭雪の真剣な表情を見て頷き、奥へと通した。


沈貴人は寝台に腰を下ろし、帳越しに静かに考え込んでいた。


「蘭雪……?」


「お邪魔いたします」


蘭雪は帳をくぐり、沈貴人の前に進み出た。


「これをお持ちしました」


そう言って、沈逸から預かった紙包みをそっと差し出す。


沈貴人は不思議そうに受け取り、中を確かめた。そこには、細かな粉末が入っている。


「これは……?」


蘭雪は小さく息を吸い、慎重に言葉を選んだ。


「沈逸様からの策です。皇后様から授かった香包には、長く使えば心を操られる成分が含まれていると」


沈貴人の表情が強張る。


「そんな……」


「ですが、これを香包の中に忍ばせれば、成分を中和できるそうです」


沈貴人はしばし沈黙したまま、紙包みを見つめた。


「私を……助けるために?」


「ええ。沈逸様も、あなたを皇后様の思い通りにはさせたくないと」


沈貴人はそっと唇を噛んだ。


「……ならば、私はどうすればいいの?」


「あなたが選ぶのです」


蘭雪はまっすぐ沈貴人を見つめた。


「皇后様のもとに入るふりをしながら、己の意思を守ること。そうすれば、あなたはあなたのままでいられます」


沈貴人は深く息を吐き、静かに頷いた。


「……わかりました。私は、この香を使うふりをして、皇后様の目を欺きます」


彼女の瞳には、もはや迷いはなかった。


蘭雪は微笑み、沈貴人の手を優しく握った。


「きっと、大丈夫です」


後宮の闇の中で、沈貴人は己の道を選び取ったのだった——。




翌朝、沈貴人は慎重に準備を整えた。昨夜、蘭雪から受け取った粉末を香包の中に忍ばせ、何事もなかったかのように振る舞う。


(私はもう迷わない——皇后様の思惑にただ従うのではなく、自分の意思を貫く)


そう心に決めると、沈貴人は紫蘭殿へ向かった。


紫蘭殿に入ると、皇后はすでに几帳に座り、侍女が香を焚いていた。


「沈貴人、よく来ましたね」


皇后は穏やかな笑みを浮かべたまま、沈貴人を手招きした。


「昨日のこと、よく考えたでしょう?」


沈貴人は深く一礼し、静かに応える。


「はい。皇后様のお心をありがたく受け止めました」


そう言って、彼女は袖から香包を取り出し、丁寧に差し出す。


「この香包を、昨夜からずっと使わせていただいております」


皇后は微笑を崩さぬまま、それを手に取った。


「そう……良い心がけですね」


しかし、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。


(沈貴人、本当に従順になったのか? それとも——)


皇后は香包を指で軽く撫で、しばし考え込むように沈黙する。


沈貴人はその視線を正面から受け止めた。


(疑われている……でも、表情一つ変えないこと)


やがて、皇后はくすりと笑い、香包を戻した。


「よいでしょう。では、これからも私のもとで精進なさい」


「はい、皇后様」


沈貴人は恭しく頭を下げながら、胸の内でそっと息を吐いた。


(今は、皇后様の信頼を得ることが先決——)


だが、皇后はなおも沈貴人を注視していた。


(何かが違う。沈貴人は、まだ私の完全な駒にはなっていない)


その疑念を確かめるため、皇后は新たな策を巡らせ始めていた——。




紫蘭殿を辞した沈貴人は、ゆっくりと回廊を歩いていた。皇后の視線の重みがまだ背中に残る。


(皇后様は、私を試している……)


自ら差し出した香包には、蘭雪が調合したごく微量の香料が仕込まれていた。それが皇后にどのような影響を与えるかは、まだわからない。だが、沈貴人には他に選択肢がなかった。


「沈貴人……」


ふと、低く柔らかな声が背後からかけられた。


振り向くと、沈逸が月白の衣をまとい、悠然と立っていた。


「沈逸……」


「思ったより早く戻ってきたな」


沈逸は細めた目で沈貴人を見つめる。その瞳の奥には、いつもの飄々とした色はない。


沈貴人は視線を逸らさず、静かに言った。


「皇后様は私を信じてくださいました」


「そうか?」


沈逸は微笑みながらも、彼女の肩に落ちた髪を指先で払う。その仕草に、沈貴人は微かな緊張を覚えた。


「皇后様が信じたのではなく、お前がそう思い込もうとしているだけではないか?」


「……どういう意味?」


沈逸は深くため息をつき、彼女の耳元にそっと囁いた。


「皇后様は、次の手を打つつもりだ。お前の忠誠を試すためにな」


沈貴人の指先が強ばる。


(まだ終わっていない……)


沈逸は微笑を浮かべたまま、彼女の顔を覗き込んだ。


「策を練る時間は少ないぞ、沈貴人」


沈貴人は沈逸の言葉を反芻しながら、拳を握りしめた。


(負けるわけにはいかない——皇后様の手駒になるつもりも、捨てられるつもりもない)


「……ええ、分かっているわ」


そう答えた沈貴人の瞳には、かすかな決意の光が宿っていた。


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