第四十節 李太医の診断
第四十節 李太医の診断
蘭雪は、李太医を自室へ招いた。
李太医は白い髭を撫でながら、蘭雪の前に恭しく座る。
「蘭雪様、お呼び立ていただき光栄に存じます。如何なされましたか?」
蘭雪は沈貴人から預かった香包を差し出した。
「この香の成分を調べていただきたいのです。皇后様が沈貴人に贈られたものですが、何か妙な気がします」
李太医は慎重に箱を開け、中の香を取り出す。
「ふむ……」
彼は手元の銀針を取り出し、香の表面をわずかに削り、それを火皿に落として火をつけた。
ふわりと漂う香煙——白檀、沈香、麝香が混じる馥郁たる香り。
しかし、李太医の眉が微かに動いた。
「蘭雪様、これは……ただの香ではありません」
「どういうことでしょう?」
「微量ですが、ある種の薬草が混ぜられています。『安神散』と呼ばれるもので、心を落ち着かせる効果があります。しかし——」
李太医は慎重に言葉を選んだ。
「長期間吸い続けると、心神が鈍くなり、判断力が低下する可能性があります」
蘭雪の表情が険しくなる。
「つまり、沈貴人の思考を鈍らせようとしている?」
「断言はできませんが……その可能性は否定できません」
蘭雪は沈貴人の姿を思い浮かべた。
(皇后様……沈貴人を、どこへ導こうとしているのですか?)
蘭雪は静かに拳を握ると、李太医に深く礼をした。
「李太医、ありがとうございます。これは私に預けてください」
「承知いたしました。しかし、蘭雪様——お気をつけください」
「……ええ」
蘭雪は香包を見つめながら、深い考えに沈んだ。
皇后の真意を探る必要がある——沈貴人を守るために。
***
蘭雪は、夕刻の静かな廊下を歩いていた。
李太医から受け取った香包を懐にしまいながら、沈貴人のことを考える。
(皇后様は沈貴人を試しながらも、確実に何かを仕掛けている……)
皇后の意図を見極めなければならない。
そのとき——。
「蘭雪」
低くも澄んだ声が、背後から響いた。
振り向くと、そこには沈逸が立っていた。
「沈逸……?」
彼は相変わらずの涼やかな美貌を湛え、片眉をわずかに上げながら蘭雪を見つめている。
「随分と険しい顔をしているな」
蘭雪は一瞬迷ったが、沈逸ならば信頼できると判断し、小声で告げた。
「沈貴人のことです」
沈逸の瞳がわずかに鋭くなる。
「話を聞こう」
二人は人気のない庭へ足を運ぶ。
蘭雪は沈貴人が皇后から贈られた香包について説明した。
沈逸は黙ってそれを受け取り、香の匂いを嗅ぐ。
「……なるほど」
「やはり、何か仕掛けられている?」
沈逸は薄く笑った。
「さすがだな、蘭雪。気づいていなければ、沈貴人は気づかぬまま、ゆっくりと皇后の色に染められていただろう」
「沈逸、これはどうすれば……?」
彼は香包を弄びながら、しばし思案するように視線を落とす。
そして、ふっと微笑んだ。
「策はある」
「え?」
沈逸は蘭雪を見つめ、意味深な笑みを浮かべる。
「俺に任せろ。沈貴人を皇后の手から逃がす方法——用意してやる」
蘭雪は彼の言葉に、確かな信頼を感じた。
(沈逸……彼が動くなら、道は開けるかもしれない)
月明かりの下、沈逸の笑みはどこか挑戦的で、それでいて頼もしかった——。
沈逸は香包を手のひらで転がしながら、静かに言った。
「沈貴人に、この香を使わせるわけにはいかない」
蘭雪は沈逸の横顔を見つめながら問う。
「やはり何か仕掛けがあるのですね?」
沈逸は微笑を浮かべたまま答えた。
「香りそのものは害はないが、じわじわと精神に影響を与える成分が含まれている。使い続ければ、知らぬ間に皇后の言葉に従いやすくなるだろう」
蘭雪の眉が寄る。
「……つまり、沈貴人を皇后様の“忠実な者”にするためのもの、ということですね」
「その通りだ」
沈逸は指先で香包を弄びながら、何かを考えているようだった。
「このままでは沈貴人は皇后の手の中で動かされる駒になる。だが、下手に騒げば、皇后はすぐに別の策を講じるだろう」
「では、どうするのです?」
沈逸は微笑みを深めた。
「簡単なことだ。沈貴人がこの香を使っていると“見せかけ”つつ、実際には影響を受けないようにする」
「そんなことが可能なのですか?」
沈逸は懐から小さな紙包みを取り出し、蘭雪の手にそっと乗せた。
「これを沈貴人に渡せ。香包と一緒に忍ばせておけば、成分を中和する」
蘭雪は驚きながらも、沈逸の策に感心した。
「つまり、皇后様の目を欺きつつ、沈貴人を守る、ということですね」
「聡いな」
沈逸はにこりと笑い、軽く肩をすくめた。
「俺も沈貴人には恩がある。彼女が操り人形にされるのを見過ごす気はない」
蘭雪は沈逸の表情を見つめ、ふと胸の奥に温かいものを感じた。
彼は軽薄に見えて、実は深いところで人を守る男なのだ。
「……ありがとうございます、沈逸」
沈逸は目を細め、茶目っ気たっぷりに言った。
「礼は、そのうち酒でも奢ってくれればいい」
蘭雪は呆れたように笑い、静かに頷いた。
(沈逸がいるなら、大丈夫——)
夜の風が静かに吹き抜ける。
沈逸の策が、皇后の計略を覆す鍵となるのは、間違いなかった。




