第三十九節 沈貴人の苦悩
第三十九節 沈貴人の苦悩
沈貴人は自室に戻ると、静かに扉を閉めた。
机の上には、皇后から返した簪の代わりに置かれた白磁の小箱がある。開けてみると、そこには繊細な細工が施された香包が入っていた。
(皇后様……これはどういうおつもりなのでしょう)
拒絶を示したはずなのに、皇后は何も咎めることなく、むしろこのような贈り物を寄越した。その意図が読めず、沈貴人の胸には重いものがのしかかる。
「お心を拒んだのに、また別の手を差し伸べられるとは……まるで私の答えなど初めから計算されていたようですわ」
沈貴人はため息をつき、そっと香包を閉じた。
そこへ、女官の雲雀が慎重な声で告げる。
「沈貴人様、外に人が……」
「誰?」
「……沈公子にございます」
沈逸——。
その名を聞いた瞬間、沈貴人の指が微かに震えた。
彼女が迷っていることを察したのか、雲雀がそっと囁く。
「お会いになりますか?」
沈貴人は一瞬、躊躇した。
沈逸の前に立てば、彼は必ず自分の迷いを見抜く。彼の前では、沈貴人はただの妹であり、強がることができない。
けれど——
「通しなさい」
は静かに命じた。
やがて、帳の向こうから沈逸が姿を現す。
「……久しいな」
沈逸は変わらぬ穏やかな微笑をたたえながらも、鋭い眼差しで沈貴人を見つめていた。
沈貴人は背筋を伸ばし、沈逸を迎えた。
「……」
「皇后から贈り物を受け取ったと聞いた」
沈逸の声は柔らかいが、どこか探るような響きを持っていた。
沈貴人は視線を落とし、しばし沈黙する。
そして——
「……私は、どうすればいいのでしょうか」
それは、沈貴人がこれまで誰にも見せなかった弱音だった。
沈逸はそんな彼女の言葉を受け止めながら、ゆっくりと口を開く。
「お前が決めることだ。だが——」
沈逸は沈貴人の目を見据え、はっきりと告げた。
「お前がこの後宮で生き抜きたいなら、迷いは命取りになる」
沈貴人は俯き、指先を握りしめる。
(迷いは命取り——)
彼女はこれまで、ただ慎ましく生きることが最善だと信じていた。皇后の手を取ることも、拒むことも、それぞれに意味がある。しかし——どちらも危険を孕んでいる。
「……私はどうすれば……」
弱々しく問う沈貴人を、沈逸はじっと見つめた。
「お前が選ぶべき道は、己で決めるものだ」
沈逸はそう言うと、懐から小さな紙片を取り出し、机の上に置いた。
「これは?」
沈貴人がそっと手を伸ばすと、そこには簡潔な文字が並んでいた。
「皇后の贈り物は、“香”に注意せよ」
沈貴人の目が見開かれる。
「これは……?」
沈逸は微笑しながら、声を潜めて告げた。
「これ以上は言えない。ただ、お前が迷いなく生きることを願う」
そう言い残し、沈逸はすっと立ち上がる。
「私はそろそろ戻る。お前の決断を、遠くから見守っている」
沈貴人は唇を噛みしめ、沈逸の背中を見送った。
——沈逸は確実に何かを知っている。
沈貴人はふと机の上にある皇后の香包を見つめた。
(この香に、何が……?)
沈貴人は静かに小箱を開け、香包を取り出した。その香りを慎重に嗅ぐ——が、すぐには異常を感じない。
しかし、沈逸がこうまでして注意を促す以上、何かしらの意図があるはずだった。
沈貴人は決意を固め、小箱をそっと閉じた。
(私は、真実を知らなければならない)
そして——沈貴人は一つの決断を下す。
翌日。
沈貴人は香包を持ち、ある人物のもとを訪れた。
「——蘭雪」
蘭雪が顔を上げる。
沈貴人は静かに息を整え、言った。
「あなたに、頼みがあります」
沈貴人の言葉に、蘭雪はそっと視線を向けた。
「頼み、とは?」
沈貴人は懐から、小箱を取り出した。
「これは皇后様から賜った香包です。でも……何かおかしいのです」
蘭雪は手を伸ばし、慎重にそれを受け取る。
「おかしい?」
「——沈逸が、この香に注意するようにと忠告してくれました」
沈貴人の声音は震えていた。沈逸が警戒を促したとなれば、それ相応の理由があるはずだ。
蘭雪は箱を開け、香包を取り出した。鼻を近づけ、ゆっくりと香りを確かめる。
(……沈貴人の言う通り、何か妙なものが混じっている)
香の主成分は白檀と沈香、わずかに麝香も感じる。しかし、その奥に微かに漂う異質な匂い——蘭雪はそれを見逃さなかった。
「これは……」
蘭雪は眉をひそめ、沈貴人に向き直った。
「沈貴人、あなたはこれを焚きましたか?」
「いいえ。大切なものだからと、まだ火を入れておりません」
「よかった」
蘭雪は安堵の息を吐いた。もしすでに焚いていたら、事態は違ったものになっていたかもしれない。
「この香、私に少し時間をいただけますか?」
沈貴人は不安そうに頷いた。
「何かわかったら教えてください……」
蘭雪は沈貴人を見送り、その場で考えを巡らせる。
(皇后様が贈った香……沈逸が警戒する理由……)
蘭雪はすぐに侍女を呼び、ある人物を訪ねることにした。
「——李太医を呼んでください」




