第三十七節 沈貴人の決断
第三十七節 沈貴人の決断
沈貴人は、自らの宮へ戻ると、そっと扉を閉じた。
室内には誰もいない。侍女たちは下がらせてある。
手に握った絹布を見つめ、静かに息を吐いた。
(蘭雪様を監視する……)
皇后の命は絶対だ。逆らえば、自分の立場は危うくなる。
しかし、それでも——。
(蘭雪様は私を守ってくださった。もし私が裏切るようなことをすれば……)
沈貴人は絹布をぎゅっと握りしめた。
そのとき——。
「沈貴人」
柔らかな声が響いた。
驚いて顔を上げると、そこには蘭雪が立っていた。
「……蘭雪様」
沈貴人はすぐに頭を下げたが、蘭雪は穏やかに微笑んでみせた。
「顔色が優れないようだけれど、大丈夫?」
沈貴人は思わず目を逸らした。
(……私は、蘭雪様に嘘をつくの?)
けれど、蘭雪の優しい眼差しに、沈貴人の胸は締めつけられた。
「蘭雪様……私……」
言葉が詰まる。
蘭雪は静かに彼女の手を取り、その指に触れた。
「沈貴人、私を信じてくれる?」
沈貴人は目を見開いた。
「……信じる?」
「ええ。私はあなたを守りたいの」
その言葉は、まっすぐに沈貴人の心に届いた。
沈貴人の指が、震えながらもそっと絹布を開いた。
「皇后様から……これを頂きました」
蘭雪はそれを手に取り、しばらくじっと見つめた。
そして、小さく微笑んだ。
「そう……これは、私を試すためのものね」
沈貴人の瞳に、不安の色が浮かぶ。
「私は……どうすれば……?」
蘭雪はそっと彼女の手を握った。
「あなたの心が決めることよ」
沈貴人は、じっと蘭雪を見つめた。
長い沈黙のあと——彼女は、深く息を吸い込んだ。
そして、決意を込めた目で、静かに口を開いた。
「私は……蘭雪様を裏切りません」
その言葉を聞いた瞬間、蘭雪の目がやさしく細められた。
「ありがとう、沈貴人」
沈貴人の胸に、じんわりと温かいものが広がる。
——もう、迷わない。
たとえ皇后に背くことになろうとも。
自らの信じる道を行くと、彼女は決めたのだった。
***
紫蘭殿の静寂を破るように、皇后は扇を閉じた。
「——沈貴人が、蘭雪の側についたと?」
報告を終えた侍女は、深く頭を下げたまま身じろぎもしない。
「はっ……申し上げにくいのですが、沈貴人様は、蘭雪様を裏切ることを拒みました」
皇后はわずかに唇を歪めたが、その目には怒りではなく、むしろ興味深げな色が宿っていた。
「ふふ……面白いわ」
侍女が驚いたように顔を上げる。
皇后は扇を開き、ゆっくりと仰いだ。
「沈貴人のような慎重な娘が、私の命に従わないとはね……」
「……如何なさいますか?」
侍女の問いに、皇后はしばし沈黙した。
そして、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「沈貴人にはしばらく好きにさせておきなさい」
「しかし、それでは……」
「焦る必要はないわ。彼女が蘭雪の側についたということは、それだけ蘭雪には人を惹きつける才があるということ」
皇后の目が冷たく細められた。
「ならば、それを利用しない手はないでしょう?」
侍女は言葉を失ったまま、皇后の言葉を待った。
「沈貴人を処罰すれば、蘭雪はますます警戒を強める。ならば——」
皇后は扇を閉じ、ほほ笑んだ。
「蘭雪が“守りたいもの”を増やせばいい」
侍女ははっと息をのんだ。
「まさか……沈貴人様を利用するおつもりで?」
皇后は何も答えず、静かに立ち上がる。
「さあ、手を打つとしましょう」
彼女の目には、冷徹な策略の光が宿っていた。
***
蘭雪が夕陽に染まる廊下を歩いていると、背後から小さな足音が聞こえた。
「蘭雪様……!」
振り向くと、沈貴人がそっと駆け寄ってきた。彼女の顔には、微かな不安の色が浮かんでいる。
「どうしたの?」
「……皇后様が、何か動いているようなのです」
蘭雪は目を細めた。
「何か具体的なことを?」
「まだ確かなことは分かりません。ただ、私の周囲の女官たちの態度が変わりました。あからさまに私の動向を探るような目……まるで、私が何をするのかを見極めようとしているようです」
沈貴人の言葉に、蘭雪は静かに息を吐いた。
(皇后様は沈貴人をすぐには切り捨てないつもり……ならば、別の形で揺さぶりをかける気なのね)
「気をつけて」
「はい……でも、蘭雪様」
沈貴人はためらいがちに言葉を継いだ。
「もし、皇后様が本気で私を試そうとしているなら……私、どうすれば?」
その問いに、蘭雪は沈貴人の目をまっすぐに見つめた。
「選ぶのはあなたよ」
沈貴人ははっとしたように息をのむ。
「……私の、選択……」
「そう。誰かの駒ではなく、自分の意思で立つこと。沈貴人、あなたは皇后様のものでも、陛下のものでもないわ」
沈貴人はしばらく沈黙し、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
その瞳には、これまでよりも強い意志が宿っていた。
蘭雪はそっと微笑んだ。
「それでいいのよ」
しかし——。
この瞬間、蘭雪はまだ知らなかった。
皇后がすでに、次なる一手を打っていることを。




