第三節 忍び寄る影
第三節 忍び寄る影
詩の試練が終わった後も、蘭雪の胸には微かな緊張が残っていた。
(私の詩は、後宮に波紋を広げた……)
良くも悪くも、注目を集めた ということ。
それが意味するのは、敵と味方の両方が現れる ということだった。
***
翡翠殿に戻ると、侍女の春燕が迎えた。
「お帰りなさいませ、蘭雪様」
「ええ。何か変わったことは?」
春燕は少し躊躇いながら、そっと囁く。
「……実は、宦官の魏尚様 がお見えになりました」
(魏尚?)
宦官長・魏尚は、皇后に仕える人物。
後宮で最も権力を持つ宦官のひとり——その彼が、なぜ私に?
蘭雪は静かに頷き、部屋へと向かった。
***
帳が揺れる室内に、魏尚は既に腰を下ろしていた。
「お初にお目にかかりますな、蘭雪様」
静かな微笑みをたたえながら、彼は手を軽く合わせる。
「魏尚様が、私に何か御用でしょうか?」
蘭雪もまた、慎重に言葉を選んだ。
「ええ。先ほどの詩の試練——なかなか興味深いものでした」
魏尚は茶を口にしながら、蘭雪を見据えた。
「あなたの詩には、後宮には珍しい考え方が込められていました」
「——『運命を受け入れ、しなやかに生きる』 とは、まるで御自分の立場を心得ているような詠み方ですな」
(……探っている?)
蘭雪は慎重に表情を崩さず、静かに微笑んだ。
「詩とは、心の赴くままに詠むもの。深い意味など、ございません」
魏尚はしばらく沈黙し、それから笑みを深めた。
「そうですか。ならばよろしい」
魏尚はゆっくりと立ち上がった。
「……ただし、蘭雪様」
彼は一歩、蘭雪に近づく。
「後宮では、注目を集める者ほど危険に晒されるもの」
「あなたの詩に、感銘を受けた者もいるでしょう」
「しかし——それを疎ましく思う者もいる」
魏尚は静かに言い残し、部屋を後にした。
蘭雪は、魏尚の背を見送りながら、ゆっくりと茶を口に運ぶ。
(……敵か、味方か)
(けれど、私が目を逸らせば、後宮では生き残れない)
蘭雪は静かに息を整え、次なる策を練ることにした。
魏尚が去った後、蘭雪はしばし沈思していた。
(魏尚は何を伝えたかったのか……)
彼の言葉は警告のようでもあり、試すようでもあった。
「注目を集める者ほど、危険に晒される」
それが単なる忠告なのか、それとも——皇后の意向を含んでいるのか。
(皇后様……)
この後宮を統べる存在にして、最も慎重で、最も恐ろしい女性。
***
ある日。
蘭雪は朝の光を浴びながら、後宮の回廊を歩いていた。
すると、一人の女官が近づいてきた。
「蘭雪様、皇后様が御前へお呼びです」
(……ついに来たか)
蘭雪は静かに頷くと、女官に従いながら皇后の居所へと向かった。
***
景仁宮——それが、皇后の住まう宮であった。
その広大な庭には、精巧な石畳と見事な池が広がり、品のある花々が咲き誇る。
蘭雪が案内されたのは、奥まった一室。
そこには、端然とした姿で座す皇后の姿があった。
「蘭雪、参りました」
蘭雪は跪き、深々と頭を下げる。
「……顔を上げなさい」
穏やかながらも冷ややかな声。
蘭雪がゆっくりと顔を上げると、皇后の鋭い視線がまっすぐに向けられていた。
「あなたの詩、興味深く拝見しましたよ」
(やはり、この話……)
皇后は玉指で茶杯を持ち上げ、静かに微笑む。
「“しなやかに生きる”——あなたは本当に、それを望んでいるのかしら?」
蘭雪は一瞬、言葉を選ぶ。
皇后の問いには、ただの感想以上の意味があった。
(……試されている)
「……後宮とは、波が絶えぬ場所」
蘭雪は静かに答えた。
「けれど、どれほど波が荒くとも、沈まぬ者こそが生き残ることができるのでしょう」
皇后は微かに目を細めた。
「なるほど」
彼女はゆっくりと茶を飲み、その後、蘭雪を見据えた。
「——あなたの言葉、しかと聞き届けました」
皇后は微笑んだが、その笑みの奥には冷たい光があった。
皇后の視線が蘭雪を射抜く。
試すような目、それでいてどこか含みのある微笑み——。
「蘭雪、あなたに一つ、頼みたいことがあります」
(頼み……?)
蘭雪は表情を崩さぬよう注意しながら、静かに答えた。
「この身でお応えできることならば、喜んでお受けいたします」
皇后は軽く頷くと、侍女に目配せをした。
すると、侍女が漆黒の木箱を持って進み出る。
箱の蓋が開かれると、中には——白絹に包まれた何か が収められていた。
「これは——」
「玉玲瓏」
皇后の声が静かに響く。
「——陛下が特に大切にされている玉飾りです」
蘭雪の胸が僅かにざわめいた。
玉玲瓏——それは、皇帝の寵愛を示す象徴 でもある。
(なぜ、こんなものを……)
皇后は、蘭雪の微かな動揺を見透かしたかのように、ゆっくりと続けた。
「近頃、ある妃が陛下からこの玉玲瓏を賜ったと噂されています」
「けれど、それが本当に陛下の意思で渡されたものなのか……確かめる必要があります」
(……つまり)
「私に、その真偽を探れと?」
皇后は微笑を崩さぬまま、うなずいた。
「ええ。あなたの聡明さを、少し試させていただきますわ」
蘭雪は視線を落とし、考える。
この「試し」に乗るか、拒むか——。
けれど、拒めば皇后の信頼を得る機会を失う。
(それに……)
(皇帝が、本当にその妃を寵愛しているのか。それを知ることは、私自身の今後にも関わる)
蘭雪は静かに頭を下げた。
「皇后様のご期待に添えますよう、尽力いたします」
皇后の笑みが、僅かに深まった。