第三十六節 皇后の懐
第三十六節 皇后の懐
沈貴人は夜風に揺れる燈籠の灯を頼りに、静かに紫蘭殿へと足を踏み入れた。
皇后に会うのは、今日で何度目だろう。
——陛下に忠誠を誓いながら、皇后の信頼も得なければならない。
その綱渡りのような状況に、沈貴人の心は張り詰めたままだった。
「皇后様、沈貴人にございます」
紫紗の帳越しに、皇后が優雅に微笑むのが見えた。
「ええ、お入りなさい」
沈貴人は深く一礼し、静かに中へ進んだ。
***
「皇后様、お呼びとのことでしたが……」
「ええ。あなたと、ゆっくり話をしたいと思っていたの」
皇后は穏やかに微笑みながら、手元の茶碗を弄ぶ。
「あなたがどれほど聡明で、どれほど忠実か……私はよく分かっているわ」
沈貴人は息をのむ。
(皇后様は、何を見抜いているの……?)
皇后は、ゆっくりと茶を口に含んだ後、視線を沈貴人へと向けた。
「私はね、沈貴人。自分に忠誠を誓う者と、そうでない者の違いが分かるの」
「あなたは、私にどこまで忠実なのかしら?」
沈貴人の心臓が跳ねる。
(これは……試されている)
皇帝の密命を受けた身でありながら、皇后にその忠誠を証明しなければならない。
どちらか一方を選ぶことは、もう許されないのだ——。
「皇后様、私は……」
沈貴人が言葉を探していると、皇后はすっと立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「沈貴人、私はあなたを信じているわ」
「でもね、あなたが本当に私の側にいると証明するには……それなりの覚悟が必要よ」
皇后は、微かに冷たい笑みを浮かべた。
「私のために、あることをしてもらうわ」
沈貴人の指先が、僅かに震えた。
(——皇后様は、私に何をさせるつもりなの?)
皇后の真意を測りかねながらも、沈貴人は静かに頭を下げた。
「……皇后様のご命令のままに」
皇后は満足げに頷き、沈貴人の肩にそっと手を置いた。
「それでいいのよ。さあ、私に従いなさい」
沈貴人の膝の上に広げられた絹の布には、一つの名前が記されていた。
「蘭雪」
「……これは?」
沈貴人はその名を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
皇后は優雅に扇を開きながら、穏やかな口調で言った。
「この後宮において、私の忠実な者となるならば、あなたには証を立ててもらわなければならない」
沈貴人は表情を崩さぬまま、慎重に言葉を選ぶ。
「皇后様は、私に蘭雪様を……?」
「害せよ、とは言っていないわ」
皇后は微笑みながら、沈貴人の反応をじっと見つめる。
「ただ、蘭雪が“本当に陛下に忠実な者なのか”を確かめてほしいの」
沈貴人はゆっくりと絹を畳みながら、考えを巡らせる。
(皇后様は、蘭雪様を疑っている……?)
それとも、これは蘭雪を試すための策略なのか。
「蘭雪様が、もし陛下に不忠の意を抱いていたなら……?」
皇后は薄く微笑みながら、沈貴人の顎を軽く持ち上げた。
「そのときは、私に報告しなさい」
「私が適切に処理するわ」
沈貴人の心臓が高鳴る。
蘭雪は自分を救ってくれた恩人——だが、今や彼女を監視する役目を負わされた。
「……畏まりました」
沈貴人は深く一礼し、皇后の命を受けた。
(私は、蘭雪様を裏切ることになるの……?)
しかし、皇后に背けば——今度は自分が消される番だ。
***
紫蘭殿を辞した沈貴人は、静かに回廊を歩いていた。手には皇后から渡された絹の布がある。
「蘭雪の忠誠を確かめよ」
皇后の命を受けたものの、心の中では迷いが渦巻いていた。
(蘭雪様は私を救ってくださった……それなのに、私はその方を疑い、監視しなければならないの?)
けれど——。
(皇后様の命に背けば、私の立場は危うくなる。もしかすると、それどころか……)
沈貴人は思わず足を止め、ぎゅっと布を握りしめた。
「沈貴人?」
突然の声に、沈貴人は驚いて振り返った。
そこに立っていたのは——沈逸だった。
「……沈公子」
沈逸は穏やかに微笑みながら、彼女を見つめる。
「どうした? ずいぶんと思い詰めた顔をしている」
沈貴人は、沈逸にさえ本心を打ち明けるわけにはいかないと悟った。
「……何でもありません。少し考えごとをしていただけです」
沈逸はじっと沈貴人を見つめた後、ふっと微笑んだ。
「そうか。しかし、君が何を考えているか……大体察しはつくよ」
沈貴人の心臓が跳ねる。
「……どういう意味でしょうか?」
沈逸は彼女の手元に目を落とした。
「その絹布……皇后様からのものだろう?」
沈貴人は咄嗟に布を隠そうとしたが、沈逸は軽く首を振った。
「無理に隠すことはないよ。皇后様から何らかの命を受けたのだろう?」
沈貴人は沈黙したまま、沈逸の顔を見つめる。
沈逸は少しだけ表情を和らげ、優しく囁いた。
「君にとって、何が最も大切か——よく考えるといい」
「決して、誰かの手のひらで踊らされるままにはならないように」
沈貴人の指が、ぎゅっと布を握る。
沈逸はそれ以上何も言わず、ただ軽く微笑んでその場を去っていった。
(……私にとって、大切なもの?)
沈貴人はその言葉を噛み締めながら、再び歩き出した。
この後宮で生き残るために、彼女はどんな選択をするべきなのか——。
それを決める時が、刻一刻と近づいていた。




