第三十五節 皇帝の招き
第三十五節 皇帝の招き
沈貴人は静かに歩を進めながら、心の中で深く息を整えた。
夜更けに陛下から召されるというのは、決して珍しいことではない。だが、この呼び出しにはただならぬ気配があった。
紫禁城の回廊を進むうちに、沈貴人は無意識に背後を気にしている自分に気づいた。
(さっきの視線……あれは、何だったのかしら)
沈逸の影が脳裏をよぎる。彼が本当にここにいるのか、それとも単なる気のせいか——それすらも分からなかった。
やがて、一行は御花園を通り過ぎ、夜の闇に包まれた寧和殿の前に到着した。
宮門の前に立つ太監が恭しく一礼する。
「沈貴人、どうぞお進みください」
沈貴人は静かに頷き、一人で中へ入る。
***
寧和殿の奥へ進むと、そこには燭台の炎に照らされた皇帝の姿があった。
龍紋の刺繍が施された衣をまとい、長い指で卓を軽く叩いている。
「陛下……」
沈貴人はすぐにひざまずいた。
「夜分にお呼び立てし、すまぬな」
皇帝の声は穏やかだったが、沈貴人はその裏に隠された意図を探るように慎重に答えた。
「陛下のお召しであれば、いつ何時でも参ります」
皇帝は微笑し、手を軽く振る。
「近う寄れ」
沈貴人は命じられるまま、一歩前へ進んだ。
皇帝はしばらく彼女を見つめていたが、やがて静かに言った。
「紫蘭殿でのこと……すべて聞いている」
沈貴人の指先がわずかに強張る。
「皇后が茶を勧めたこと。それを蘭雪が止めたこと……そして、お前が最後まで迷いながらも、飲まなかったことも」
皇帝は沈貴人の目をじっと見据えた。
「お前は、皇后の側につくつもりだったのか?」
鋭い問いだった。
沈貴人は内心で息を飲みながらも、すぐに表情を引き締めた。
(——これは、私の立場を試している)
慎重に言葉を選び、彼女は口を開く。
「私は、陛下のお側に仕える身にございます」
皇帝の目がわずかに細まる。
「ならば、なぜあの場で迷った?」
沈貴人は唇を引き結ぶ。
(どう答えるべきか……)
皇帝の信頼を得るには、誠実さを見せることが肝要だ。しかし、皇后を完全に否定すれば、それはそれで危険だった。
沈貴人は静かに膝を折り、深く頭を下げる。
「私は……皇后様を敬っております。しかし、陛下への忠義を疑われることがあってはならぬと、思いました」
「故に、迷いが生じましたが……最後には、陛下への忠義を選びました」
一瞬の沈黙が流れた。
やがて——。
皇帝はゆっくりと微笑んだ。
「よい答えだ」
沈貴人は密かに安堵する。
「お前は聡いな。慎重でありながら、機転も利く」
皇帝はふと視線を逸らし、卓の上に置かれた冊子を手に取った。
「沈貴人、お前は後宮に入ってまだ日が浅いが……この短期間で大きく名を上げた」
「このまま私の寵愛を受け続けるつもりか?」
その問いに、沈貴人は再び息を飲む。
「陛下の御心が第一にございます。私は、陛下のおそばで……」
「では、試そう」
皇帝の声音が、わずかに低くなった。
「沈貴人、私のために一つ、仕事をしてもらおう」
沈貴人の心臓が高鳴る。
「……仕事、にございますか?」
皇帝はゆっくりと彼女を見つめ、静かに言った。
「皇后の動きを探れ」
沈貴人の手が、袖の中で震えた。
(——陛下は、皇后を疑っている?)
「皇后様は、陛下にとって正室でございます」
「それがどうした?」
皇帝の声が冷たく響く。
「私の后であろうと、この後宮に巣食う陰謀には関与させぬ」
「お前には、それを確かめる役目を与える」
沈貴人の中に、恐れと覚悟が交錯する。
「……承知いたしました」
彼女が深く頭を下げると、皇帝は満足げに頷いた。
「よい。しばらくは静かに動け」
「そして、報告は直接私にしろ」
沈貴人は静かに応じた。
「仰せのままに」
こうして、沈貴人は新たな試練の中へと足を踏み入れた。
皇后に仕えながら、皇帝に報告する——。
それは、剣の上を歩くような危うい役目だった。
しかし、彼女はもう後戻りはできない。
皇帝の寵愛を受けながら、皇后の信頼も失わずにいられるのか——
沈貴人の運命は、再び揺れ動こうとしていた。
***
沈貴人は寧和殿を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
皇帝から授かった命令が、まだ心の奥で重く響いている。
(皇后様の動きを探れ、と……)
それはすなわち、皇后の信頼を得ながらも、皇帝に密かに報告するということ。
失敗すれば、皇后と皇帝の両方の怒りを買う可能性がある。
(——これは、後宮で生き残るための試練なのね)
そう思うことで、沈貴人は不安を押し殺した。
紫禁城の静寂を歩きながら、ふと視線を感じた。
「……!」
立ち止まり、慎重に辺りを見渡す。
しかし、闇の中に人影は見えない。
だが、確かに誰かがこちらを見ていた気配がした——
「沈貴人」
そのとき、不意に背後から静かな声がした。
振り返ると、そこには月明かりを背にした沈逸が立っていた。
***
「沈侍衛……」
沈貴人は驚きを隠せずに彼を見つめる。
沈逸は相変わらず冷静な表情で、歩み寄ってきた。
「こんな時間に、どこへ?」
「……陛下に呼ばれていたのです」
沈逸は沈黙したまま、じっと沈貴人の顔を見つめた。
「陛下から、何を命じられた?」
沈貴人の指先が無意識に袖の中で強張る。
「それは……」
沈逸はわずかに目を細めると、静かに言った。
「皇后に関わることだな?」
沈貴人は息をのんだ。
(なぜ……)
沈逸は何もかも見透かしているかのようだった。
「……どうして、そう思うのです?」
沈逸はふっと微笑む。
「お前の顔には、はっきりと迷いが浮かんでいる」
「そして、陛下がこの時期に沈貴人を呼びつけた理由は、一つしかない」
沈貴人は思わず視線を逸らした。
沈逸の前では、どんな言葉も嘘にはならない。
「陛下は、お前に皇后の動きを探るよう命じたのだろう?」
沈貴人は沈黙するしかなかった。
沈逸はわずかにため息をつくと、静かに言った。
「お前に忠告しよう」
「どちらの側につくかを、誤るな」
沈貴人は目を見開く。
「……私は、陛下のお側に仕える身です」
「それが正しい選択とは限らない」
沈逸の言葉に、沈貴人は思わず息を呑んだ。
沈逸は続ける。
「お前の立場は、宙ぶらりんだ」
「皇后の信頼を得れば、皇后の手駒と見なされる」
「しかし、皇帝の側に立てば、皇后の目はお前を容赦なく追うだろう」
沈貴人は拳を握りしめる。
「……それでも、私は生き残らなければなりません」
沈逸は沈貴人をじっと見つめ、やがて静かに微笑んだ。
「その覚悟があるなら……俺は何も言わない」
「だが、気をつけろ。お前の一挙手一投足が、すでに誰かの目に映っている」
沈貴人は沈逸の言葉を噛み締めながら、深く息を吐いた。
「ありがとう、沈侍衛……」
沈逸は微かに笑い、軽く頷くと、夜の闇に溶け込むように姿を消した。
沈貴人は、その場にしばらく佇み、夜空を仰いだ。
(どちらにつくかを誤れば、私は……)
後宮という戦場で生き残るための選択——
その決断を迫られる時が、すぐそこまで来ていた。




