第三十四節 沈逸の策
第三十四節 沈逸の策
沈逸は黒衣の人物を悠然と見つめたまま、扇を軽く振った。
「さて……君は誰かな?」
黒衣の人物は口を開かず、沈逸の隙を突いて逃げようとした。しかし、沈逸はすでに読んでいたように軽やかに体をずらし、さっと腕を伸ばして相手の肩を押さえた。
「おっと……逃がさないよ」
その瞬間、沈逸の指先に力が込められ、黒衣の人物は呻き声を漏らした。
「ぐっ……!」
沈貴人と蘭雪も駆け寄り、改めてその人物を見つめた。
「この者、どこかで……」沈貴人が呟く。
「顔を見せてもらおうか」
沈逸が軽く顎をしゃくると、蘭雪が素早く黒衣の者の顔を覆う布を取り払った。
——現れたのは、意外にも若い女官だった。
「あなたは……」蘭雪は驚きに目を見開いた。
「……申し訳ございません」
女官は観念したように目を伏せたが、その視線には怯えと覚悟が入り混じっていた。
沈逸は目を細め、ゆっくりと彼女の顔を観察する。
「どこの者だ?」
女官は唇を噛み、答えようとしなかった。しかし、その態度こそが、沈逸には答えを示しているように思えた。
「言いたくない、か。まあ、いいさ」
沈逸は扇を閉じ、軽くため息をつく。
「では、こうしよう。君が誰の指示で動いたのかは聞かない。ただ、僕たちに協力するなら、見逃してあげよう」
「……協力?」
女官は困惑の表情を浮かべる。
沈逸は微笑を浮かべながら、そっと囁いた。
「君は見たね? 沈貴人と蘭雪が、皇后の試練を乗り越えたことを。今、この二人が皇后様にとってどれほど重要な存在か、理解できるだろう?」
女官の肩が微かに震えた。
「君の主人がどなたであれ、今後は彼女たちと敵対しない方がいい。もし……僕の言葉を信じられないなら、皇后様に直接聞いてごらん?」
その言葉に、女官の表情が変わった。
沈貴人と蘭雪は沈逸の言葉の意図を考えながら、じっと彼を見つめる。
「……わかりました」
女官は静かに頷き、深く礼をした。
「このことは、どなたにも報告いたしません」
沈逸は満足げに微笑み、手を離した。
「よろしい。では、今夜のことは忘れるといい」
女官はもう一度頭を下げると、そっと立ち去った。
沈貴人は不思議そうに沈逸を見つめた。
「沈逸……なぜ彼女を逃がしたの?」
沈逸は扇を開き、優雅に肩をすくめる。
「捕らえて問い詰めるより、泳がせた方がいい場合もある。あの子はきっと、今夜のことを忘れようとするだろう。でも、心のどこかでは僕の言葉を思い出し、警戒するはずさ」
蘭雪は沈逸のやり方に感心しつつ、静かに問いかけた。
「つまり、彼女の主人が誰であれ、沈貴人に迂闊に手を出せなくなる……そういうこと?」
「ご名答」
沈逸はにこりと笑い、扇を閉じた。
「さて、今夜の騒ぎはこれでおしまい。お二人とも、お休みなさい」
そう言い残し、沈逸は優雅に去っていった。
沈貴人は彼の後ろ姿を見送りながら、そっと呟いた。
「……不思議な人ね」
蘭雪もまた、沈逸の策謀の巧みさに感嘆しつつ、心の中で思った。
(彼は、本当に何を考えているのかしら……)
沈逸の微笑みの裏には、まだ何かが隠されているような気がしてならなかった——。
***
夜の静寂が後宮を包み、蘭雪と沈貴人は各々の思索にふけりながら歩を進めていた。
沈逸と別れてからというもの、沈貴人の顔には未だ困惑の色が残っている。
「蘭雪……」
「どうしたの?」
沈貴人は立ち止まり、深く息をついた。
「私は、あの女官を捕らえて正体を突き止めるべきだったのではないかと思って……」
蘭雪は静かに彼女の言葉を受け止めたあと、ゆるりと首を振った。
「沈逸の言う通りよ。彼女を問い詰めても、本当の黒幕が誰なのかを知ることは難しい。それどころか、こちらが何かを探っていると気づかれてしまう」
「でも……彼は、まるですべてを見通しているかのような話しぶりだったわ」
沈貴人の声には、どこか沈逸への警戒も滲んでいる。
それを感じ取りながら、蘭雪は思案する。
(沈逸は確かに、何かを知っている……)
彼の軽やかな振る舞いの裏には、確かな情報と綿密な計算がある。しかし、彼が誰のために動いているのか、それは未だに掴めない。
——その沈逸は、二人の背後を追うように悠然と歩いていた。
「やあ、どうやら僕の話題で盛り上がっているようだね?」
沈貴人が驚いて振り返ると、沈逸が扇を広げながら微笑んでいた。
「……あなた、気配を消すのが上手すぎるわ」
沈逸は肩をすくめ、「職業柄ね」と言わんばかりに目を細める。
「沈逸」蘭雪が一歩前に進み、まっすぐに彼を見た。「あなたは何を知っているの?」
「何を、とは?」
「私たちの知らないことを、あなたはすでに知っているはず。さっきの女官の正体も、本当の目的も——すべて」
沈逸はしばし沈黙した。
そして、ほんのわずかに唇を上げた。
「……面白い。君の洞察力は侮れないな」
蘭雪は微動だにせず、彼の言葉を待った。
やがて、沈逸は少しだけ口を開く。
「僕はね、ただ沈貴人を守りたかっただけさ」
「守る?」
「そう。もちろん、それだけじゃないけれどね」
沈逸は軽く扇を振り、夜風を感じるように目を細める。
「皇后様は沈貴人を試したかった。それは分かっていたこと。でも、彼女を試すのは皇后様だけじゃない」
沈貴人の表情が強張る。
「つまり、陛下のお側にいる限り……私には、まだ試練があるということ?」
「その通り」
沈逸の声は穏やかだったが、冷厳な現実を突きつけるようだった。
「そして、その試練は——今夜の出来事よりも、もっと厄介なものになるかもしれない」
沈貴人は無言のまま、そっと拳を握る。
「だからこそ、君には知恵と勇気が必要なんだ」
沈逸は微笑みながら、沈貴人を見つめる。
「僕は君の敵じゃない。でも、君の味方であり続けるかどうかは、君次第さ」
沈貴人は息を呑んだ。
沈逸の言葉には、明らかに試すような響きがあった。
蘭雪はそのやりとりを見守りながら、ふと沈逸の目に何かの意図を感じ取った。
(彼は……沈貴人の覚悟を試している?)
「沈逸」蘭雪は静かに言った。「あなたは……本当に彼女を守るつもり?」
沈逸は一瞬だけ沈黙し、そして小さく笑った。
「さあ、どうだろう?」
それだけ言い残し、沈逸はゆるりと踵を返した。
彼の背中が夜の闇に溶け込んでいく。
沈貴人は、沈逸の言葉を反芻しながら、小さく息をついた。
「私は……信じてもいいのかしら?」
蘭雪は沈貴人の肩にそっと手を置いた。
「それは、あなたが決めることよ」
沈貴人は小さく頷いた。




